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リヒテナウ (ヴェストファーレン)の市町村合併 現在のリヒテナウ市は、1974年11月5日の「新設されたザウアーラント/パーダーボルン地域の市町村および郡の新設に関する法律」(ザウアーラント/パーダーボルン法 GV MRW S. 1224)に基づき、1975年1月1日にアセルン、アテルン、ブランケンローデ、ダルハイム、エビングハウゼン、グルントシュタインハイム、ハーケンベルク、ヘングラルン、ヘルブラム、ホルトハイム、フーゼン、イゲンハウゼン、クラインベルク市およびリヒテナウ市が合併して成立した。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の宗教 かつてパーダーボルン司教領に属していたことから、リヒテナウの住民は伝統的にカトリック信者が多数を占める。ジーモン1世治世下の1273年に創設されたカトリックの教区教会(後の聖キリアン教会)は、現在に至るまで本市で最も重要な教会組織である。15世紀にほぼ国中に影響を及ぼした宗教改革は、領邦レベルとは異なり、「ドルフ=シュタット」(田舎町)の住民の心を捕らえることはできなかった。リヒテナウでも、司教領主ディートリヒ4世から1世紀は近く完全にカトリックが信仰されていた。司教領主時代では、せいぜい一時的に住み着いたに過ぎないプロテスタント信者よりも重要なのは、1800年に75人の信者が確認される小規模なユダヤ教組織であった。この小さなユダヤ教組織も、国家社会主義ドイツのホロコーストによって駆逐され、殺害された。19世紀のプロイセン政権時代には、継続的にプロテスタント住民がこの街にやって来た。早くも1840年にはリヒテナウ城で福音主義の礼拝が行われ、1853/54年に、旧パーダーボルン領内で初めての福音主義教会がリヒテナウに建設された。この街のカトリック優位の基本的な状況は現在も保持されている。周辺村落との合併によって、カトリック比率は再び上昇した。2006/2007年のリヒテナウの基礎課程学校では、生徒の 20.9 % が福音主義、71.9 % がカトリック、1.9 % がイスラム教を信仰していた。その他の宗教は 1.5 % で、無宗教は 3.9 % であった。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の市議会 本市の市議会は、26人の議員で構成される。これに市長が議長として加わる。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の市長 2014年5月25日の市長選挙では、SPDの候補ヨーゼフ・ハルトマンが初回投票で 56.7 % の票を獲得して、当時現職のディーター・メルシュヨハン (CDU) に勝利し、市長に選出された。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の演劇 リヒテナウには固有の劇団はない。しかし、アマチュア演劇団が不定期に上演を行っている。会場は、ほとんどがリヒテナウのシュッツェンハレである。2010/2011年シーズンにはパーダーボルンの新築された劇場で公演を行った。最寄りの劇場には、テアター・ビーレフェルトやデトモルト州立劇場がある。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の博物館 旧アウグスチノ修道参事会ダルハイム修道院の大規模な修復・改修後、2007年5月22日にヨーロッパで最初の修道院博物館が開館した。この博物館は「LWL-修道院文化の博物館」という名称である。この他にリヒテナウ郷土・自然博物館がある。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の音楽 リヒテナウには、地区を含めて5つの音楽隊と、4つの音楽クラブが存在している。この他にドラム隊、楽団、音楽アンサンブル、吹奏楽団、狩猟ホルングループ、エッゲゲビルクスカペレがある。歌唱分野では、2つの教会合唱団、混声合唱団、女性合唱団がある。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の建築物 西塔と平屋の内陣を有するカトリックの教区教会聖キリアン教会は、おそらく1323年に創設された。このゴシック様式のホール式教会の内部は、十字ヴォールトが張られ、円柱によって支えられている。南の入口は1670年の新築時に遡る。ここにはパーダーボルン司教領主の紋章が掲げられている。1624年に製作されたアラバスターの主祭壇や1754年のオルガンの前面管もこの教会の調度である。祭壇画は1749年に描かれた。長方形で5階建てのリヒテナウ城の塔屋は、おそらく14世紀に建設された。1710年に建て替えられ、1853年に内部が改築された。これと類似した城塔は、ベーヴェルンゲンやマリエンミュンスター近郊に見られる。城の近くに都市防衛施設の遺構が遺されている。旧アウグスチノ修道参事会のダルハイム修道院は、同名の地区にある。この修道院は1429年に創設され、1803年にパーダーボルン領が世俗化された1803年まで存続していた。附属建造物のいくつかは解体されたり、厩舎に改造されたりした。また、ある建物は新築された。1838年に中世後期の修道院中核部が火災で焼失し、後に簡略化された形で建設された。1979年に、ヴェストファーレン=リッペ風致連合 (LWL) がこの建物を獲得し、修道院博物館に改築した。アテルンの「シュピーカー」は1588年に建設された、9 m × 8 m の平面を持つ建物である。シュピーカーは納屋ではなく、代官所あるいは役所として利用された。アテルンの教区教会聖アハティウス教会は1712年に完成した。教会内には、1761年製の祭壇や同じく18世紀に制作された鋼の聖母がある。教会には司教のペテロ像やアウグスチヌス像がある。この2人の石像は元々ダルハイム修道院にあったものである。1900年に教会塔が新設され、教会が拡張された。アルテナウタールには、新石器時代の石室墓が7基遺されている。このうち2基がアテルンとヘングラルンにある。墓の一つは、修復され、考古学調査がなされた。13世紀にブランケンローデ市が建設された(現在、同名の市区の近くにあり、廃市となっている)。この街はパーダーボルン司教領とヴァルデック伯領との境界に位置し、パーダーボルン司教ジーモン1世とコルヴァイ修道院長の勢力範囲をヴァルデック伯から護っていた。地元の言い伝えによれば、クライネンベルクに聖母像が現れたため、巡礼地となり、そこに木造の礼拝堂が建てられた。1742年バロック様式の礼拝堂に建て替えられた。1400年頃の古い聖像はクライネンベルクの守護者を表しており、主祭壇に祀られた。この礼拝堂には多くの銘が刻まれており、中には戦争に関連した文がある。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の公園 市内には2つの登録された公園があり、どちらも一般に立ち入ることができる。クライネンベルク巡礼地は約 1 ha、ダルハイム修道院の庭園は約 8.5 ha の広さがある。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の自然保護区 リヒテナウには、完全に市内に収まる自然保護区が5つある。ザウアータール(約 904 ha)、エーゼルスベット(約 99.6 ha)、シュヴァルツェス・ブルーフ自然保護区(約 31 ha)、ザウアーバッハタール・ビュルハイム(約 49.5 ha)、アルテナウタール上流部を含むマルシェルスハーゲンおよびノンネンホルツ自然保護区(約1,944 ha)である。さらに一部が市内に含まれるものとしては、ブライクーレンおよびヴェシェバッハタール(約 1.84 ha 分)、シュヴァルツバッハタール(約 221 ha 分)がある。自然保護区の総面積は約 3,275 ha で、市域の 17 % 以上が保護されている。これは州内で極めて高い値である。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)のスポーツ リヒテナウには9つの一般スポーツクラブ、6つのスポーツフィッシングクラブ、3つのテニスクラブ、3つの乗馬クラブ、2つのドイツ人命救助協会地域グループ、1つの民族舞踊サークルがある。多くはリヒテナウスポーツ連盟に加盟している。本市はリヒテナウ地区に屋外プールを、アテルン地区に天然プールを有している。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の年中行事 ダルハイム修道院で毎年夏に行われるイベントシリーズは全国的に重要である。この他に射撃祭がすべての地区で開催される。8月には、リヒテナウ・スポーツフィッシングクラブのフィシャーフェストが開催される。ここではこの地域や各地の魚料理が楽しめる。隔年10月初めにヴィルトシュッツ・コスターマン=マーケット・リヒテナウがある。ここでは、自然、森林、野生生物、農業、再生可能エネルギー分野の製品や情報あるいは食品が紹介される。この他に、VfLのヴィルトシュッツ・クロスターマン=レースが毎年開催される。12月にはリヒテナウの商店によるクリスマスマーケットが開かれる。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の交通 リヒテナウ地区は連邦道 68号線に面している。この連邦道は北西はパーダーボルン、南東はヴァールブルク郊外のシェルフェーデにつながっている。州道 L817号線は、南西方面はアウトバーン A44号線に、北東方面はバート・ドリーブルクに至る。バーンブス・ホーホシュティフト GmbH のローカルバスがパーダーボルンとの間を定期的に運行している。パーダーボルンからはヴァールブルク行きの高速バスがこの街を通っている。週末と祝前日にはパーダーボルンからリヒテナウ行きの夜行バスが運行している。市内の地区間は地域バスが結んでいる。リヒテナウはパーダーボルン=ヘクスター近郊交通連盟の管轄地区に属している。最寄りの鉄道駅は、パーダーボルン中央駅(約 20 km)、アルテンベーケン駅(約 14 km)、ヴァールブルク駅(約 24 km)である。最寄りの交通空港は約 28 km 離れたパーダーボルン/リップシュタット空港である。ハッティンゲンからアルテンベーケンに至る全長 210 km のヴェストファーレン遊歩道の一部が市内を通っている。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)のメディア 日刊紙としてはノイエ・ヴェスフェリッシェとヴェストファーレン=ブラットが月曜日から土曜日まで発行されている。両紙とも、一般面はビーレフェルトにあるそれぞれの一般面編集局で制作されており、地方面ではリヒテナウとその周辺のニュースを扱っている。さらにパーダーボルン大司教では、年に4回、パーダーボルン郡およびヘクスター郡向けに郷土史、文学、芸術に関する話題を扱う季刊誌「ディー・ヴァルテ」を刊行している。この他に月刊紙として「ディー 15」と「ルントブリック・シュタット・リヒテナウ」の2紙がある。両紙ともにリヒテナウおよびその市区の話題を掲載している。リヒテナウは、西部ドイツ放送のビーレフェルト・ローカルスタジオのサービス提供エリアに属している。さらに本市はラジオ・ホーホシュティフトの放送エリアに属している。このラジオ局は報道を担うローカルラジオ局である。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の公共機関 2009年1月1日にリヒテナウ都市施設局に上水道・清掃施設を設けた。リヒテナウ消防団は、各市区にそれぞれ消火班を配している。青年消防団は市レベルで組織されている。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の教育 市内には、リヒテナウに2校、アテルに1校の基礎課程学校がある。また、リヒテナウに本課程学校と実科学校がある。ギムナジウムは存在せず、パーダーボルン、ビューレン、バート・ドリーブルク=ノイエンヘールゼの学校に行かなければならない。2014年10月15日現在、本市には合計 53人の教員、820人の児童・生徒がいる。基礎課程学校の児童が 393人、本課程学校の生徒が 74人、実科学校の生徒が 353人である。幼児教育に関しては、本市は7園の幼稚園を運営している。1977年からリヒテナウにはパーダーボルン市民大学の分校が存在している。
リヒテナウ (ヴェストファーレン)の地元企業 リヒテナウには、主に電子データ処理、家具製造、建設、金属加工分野の企業がある。さらに中規模の手工業者や小売業者もある。リヒテナウ・テクノロジー・ツェントルムが2005年にオープンした。
肥満の肥満の診断 標準体重よりも20%以上体重が超過した辺りからを「肥満」と呼んでいる。
肥満の体脂肪率による肥満の診断 適正な体脂肪率は、男性では15~19%、女性では20~25%とされ、これを上回ると「肥満」と見なされる。正確な測定には困難を伴うため、その値の扱いを巡っての一定の見解は得られてはいない。筋肉質なのか脂肪過多なのかどうかを判断するには精密な機械を用いる必要があり、その際にはCTやMRIで体脂肪面積を測定し、体脂肪率を推定するのが最も正確と言われる。
肥満の診断 通常は内科医師が腹囲を見て診断するが、その診断基準は統一されてはいない。2007年6月、アメリカ糖尿病学会・アメリカ栄養学会・北米肥満学会は共同声明を発表し、「現時点では、腹囲の基準値はすべて、科学的根拠が不十分であり、今後確立される科学的基準値は人種別、性別、年齢別、肥満度別の非常に複雑なものになるであろう」と指摘した。
肥満の高血糖と脂肪細胞 炭水化物を摂取することで血糖値が上昇すると、膵臓からホルモンの一種であるインスリンが分泌される。血中のブドウ糖濃度が高い(高血糖)状態は身体にとっては毒でしかないため、血中に溢れたブドウ糖をかき集めて筋肉や肝臓内のグリコーゲン(ブドウ糖の貯蔵庫)に蓄える。その後、時間が経過するとともに、安静にしていても、運動する際のエネルギー源としてもグリコーゲンは消費されていく。グリコーゲンにも貯蔵しきれないぐらいに血中のブドウ糖濃度が上昇すると、インスリンはそれを全部中性脂肪に合成して脂肪細胞内部に閉じ込める。それに伴い、血糖値が低下するが、インスリンの分泌量が多すぎると、急に空腹を感じたり、急激な眠気が襲ってくる。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。脂肪細胞は、肥大するにつれて「サイトカイン」( cytokine, 「炎症性分子」)を放出するようになり、これは全身に有害な影響をもたらす。
肥満の脂肪細胞の肥大化 脂肪細胞は、細胞質内に脂肪滴を有する細胞のことである。前駆脂肪細胞が、脂肪細胞への脂肪酸輸送を促進する転写因子であるPPARγ等の因子によって刺激されて成熟脂肪細胞(正常脂肪細胞)となる。カイロミクロンやVLDLの中性脂肪をリポタンパクリパーゼによって分解し、脂肪酸を脂肪細胞へ運ぶことによって脂肪細胞が成熟する。また、グルコースが脂肪細胞へ取り込まれると脂肪酸が合成される。通常の脂肪細胞は、インスリン受容体を介さずにグルコースの取り込みを促進し、さらに、インスリン受容体の感受性を良くするアディポネクチンを分泌する。インスリンの過剰分泌が起こるごとに脂肪細胞は肥大化していき、肥大化脂肪細胞となる。脂肪細胞の大きさが上限に達し、これ以上脂肪を溜め込めない状態になると、周囲の前駆脂肪細胞がPPARγによって刺激されて成熟脂肪細胞となり順次肥大化していく。また、脂肪細胞も細胞分裂し、脂肪細胞の数も増加する。この巨視的な状態が肥満である。白色脂肪細胞はヒトにおいて250-300億個あり、直径は成熟脂肪細胞において70-90μmであり、肥大化脂肪細胞は130-140μmまで大きくなる。なお、インスリンは、脂肪細胞が満杯になってしまう場合に備えて脂肪細胞を新たに増やすよう信号を送る。脂肪細胞が体内に存在する動物は、インスリンが分泌される限り無限大に太っていく。ヒトもまた例外ではない。
肥満の肥大化脂肪細胞の分泌 脂肪細胞が肥大し、その数が増えていくにしたがって、(TNFα、脂肪酸、レジスチン)、肥満中枢を刺激して食欲を抑制するレプチン、インスリン受容体の感受性を良くするアディポネクチンの分泌低下、血液凝固を促進する物質(組織プラスミノーゲン活性化因子〈 Tissue Plasminogen Activator 〉を阻害する)、単球やリンパ球の遊走を惹き起こす「単球走化性タンパク質」( monocyte chemoattractant protein )、昇圧作用を持つ生理活性物質アンジオテンシンIIの原料となるアンジオテンシノーゲンが分泌され、最終的にインスリン抵抗性( Insulin Resistance )を惹き起こす。
肥満のインスリン抵抗性 脂肪細胞が肥大化すると、特に内臓に存在する脂肪細胞から遊離脂肪酸が遊離される。この脂肪酸の一部が骨格筋や肝細胞に運ばれ、骨格筋内へ運ばれた脂肪酸はタンパク質分子をリン酸化する酵素であるプロテインキナーゼCを活性化し、更にNF-κBに関連したIκBαのセリン残基をリン酸化する酵素複合体( IκB kinase )が活性化され、インスリン受容体基質であるIRS1タンパクのセリン残基をリン酸化する。この経路によってIRS1タンパクがリン酸化されると、正常なリン酸化過程が阻害され、結果的にIRS1以降のシグナルが伝達されず、インスリン依存のグルコーストランスポーターであるGLUT4を膜に移送できなくなる。GLUT4が機能しにくくなると、[グルコース]]が細胞に取り込まれにくくなる。インスリン抵抗性に見られる症状の1つである。もう1つのメカニズムとして、脂肪細胞から単球走化性タンパク質であるMCP-1が遊離され、MCP-1は単球を引き寄せ、細胞外に出た単球は活性化されてマクロファージとなる。このマクロファージは脂肪細胞の周囲に集積し、ここから腫瘍壊死因子として知られるTNFαを分泌する。TNFαが受容体に結合するとセリン・スレオニンキナーゼであるJNK( c-Jun amino-terminal kinase )がインスリン受容体基質であるIRS1タンパクのセリン残基をリン酸化する。この経路でも上記メカニズムと同様にインスリン抵抗性となる。また、TNFαは、GLUT4の発現を抑制する作用もある。TNFαのこれらの作用は著明なインスリン抵抗性をもたらす。さらに加えて、脂肪細胞から分泌されるアディポネクチンは、TNFαや遊離脂肪酸と異なり、インスリン受容体の感受性を上げるが、脂肪細胞の肥大化によりアディポネクチンの分泌が低下し、結果としてインスリン抵抗性につながる。
肥満の炭水化物制限と高血圧 炭水化物や砂糖を食べて血糖値とインスリン濃度が高い状態になると、インスリンは腎臓に対して「ナトリウムを再吸収せよ」という信号を送り、腎臓はその指令のとおりに動く。インスリンは尿酸の分泌を阻害し、それに伴って身体は水分を保持しようとし、血圧は上昇する(→高血圧)。一方、炭水化物の摂取を制限する食事を続けることで、血糖値と血中のインスリン濃度が低い状態が続くと、体内で変化が起こる。食事から時間が経過したり、炭水化物が少ない食事を摂ったり、長時間絶食すると、血糖値と血中のインスリンの濃度が低下する。血中のインスリン濃度が低下すると、腎臓は貯蔵していたナトリウムを、体内に溜まった余計な水分と一緒に体外に排出する。これは人体にとって有益な現象であり、炭水化物の摂取を制限するだけで血圧は簡単に低下する。体重が200ポンド(約91kg)あり、炭水化物を常食している人がその摂取制限を開始すると、身体から減少する余計な水分量は、最大で6ポンド(約2.8kg)以上に達する可能性があるとされる。
肥満の高血糖と糖化 肥満は糖尿病とも密接に関わっている。40~59歳の男性で、糖尿病が強く疑われる人の割合、BMI18.5~22が5.9%、BMI22~25が7.7%、BMI25~30が14.5%、BMI30以上が28.6%であった。なお、加齢を重ねていない20-39歳の男性ではこのような大きな差は出ていなかった。1971年から1980年のデータで糖尿病患者と日本人一般の平均寿命を比べると男性で約10年、女性では約15年の寿命の短縮が認められた。このメカニズムとして、高血糖が生体のタンパク質を非酵素的に糖化させ、タンパク質本来の機能を損なうことによって障害が発生する。これはAGEs( Advanced Glycation End Products, 「最終糖化産物」と呼ばれる )が体内で次々に作られ、身体の至るところで炎症を引き起こす。「糖化」とは「老化」のことである。この糖化による影響は、血管の主要構成成分であるコラーゲンや水晶体蛋白クリスタリンのような寿命の長いタンパク質ほど大きな影響を受ける。白内障は老化現象の一種であるが、高血糖状態が続くことでより高度に進行する。高血糖は、動脈硬化や微小血管障害の原因にもなる。この糖化反応で生じたフリーラジカルが酸化ストレスも増大させる。
肥満のメタボリック症候群 炭水化物を食べ続けることで慢性的な高血糖が常態化すると、身体はさらにインスリンの分泌量を増やそうとする。インスリンの分泌量が異常に増える状態が続くことで高インスリン血症となり、身体にますます脂肪が蓄積して悪循環に陥る。炭水化物の摂取を増やせば増やすほど、血糖値の乱高下を惹き起こし、細胞は燃料不足に陥り、それに伴って空腹を感じて食欲が増し、とくに炭水化物を多く含む食べ物に対する渇望感が強まる。インスリンは体内で暴走し、炭水化物や砂糖が多いものを見境いなく欲しがる状態になる。血中のインスリン濃度が高い状態が続くことで、身体はインスリン抵抗性を発症し、糖尿病を患うリスクが急上昇する。インスリンの大量分泌が常態化し、膵臓が疲弊すると、インスリンの分泌が機能不全に陥り、血糖値の微調整も不可能になり、糖尿病を発症する。この状態でも炭水化物を食べるのを止めることなく、インスリンの注射を怠ると、命の危険に直結する。いわゆるメタボリック症候群は、このインスリン抵抗性がより重篤になった状態でもある。
肥満の単純性肥満 親のいずれか、もしくは両親とも肥満であることが多く、身長が暦年齢相当で、精神運動発達は正常、奇形は見られない。食生活が最も影響する。
肥満の遺伝説 「なぜ太るのか」について、「過食よりも遺伝子が重要な役割を果たしている」と唱える研究者もいる。「体は一定の体重を保とうとする機能」があり、その人にとっての望ましい体重を決定づけるのは遺伝子であり、肥満体であったとしても、それは「本人にとっては正常な状態である」という。また、肥満体の親と同じものを食べている子供の場合、親と同じように肥満体になる可能性が高くなる。
肥満のレプチン ホルモン、レプチン( Leptin )がエネルギーの消費増加と食欲を司るという説が発表された。その後、肥満に関係した多くのホルモン様物質が発見されており、脂肪組織は、単なるエネルギー貯蔵庫ではなく、内分泌器官と考えられるようになってきており、それらホルモン様物質の多くは炎症に関係している。レプチンは脂肪細胞から分泌されるホルモンであり、これが脳の視床下部に到達すると、脳は身体に対して食べるのを止めるよう信号を送る。レプチンは「過食を防いでくれるホルモン」とされている。肥満体の場合、レプチンが正常に機能していない状態にあり、その体内ではホルモン異常が惹き起こされている可能性が高い。
肥満の睡眠不足と肥満 睡眠時間の短さと肥満との相関関係を指摘する数多くの報告がある(日本大学、兼板佳孝)。シカゴ大学内分泌学部門のイヴ・ヴァン・コーター博士は、睡眠不足が肥満に結びつくメカニズムについて、以下のように説明している。「睡眠不足は飢餓信号を送るホルモン、グレリンの分泌を増加させ、レプチンの分泌量が減る。睡眠科学の分野の研究者らは、この発見を踏まえて、小児を対象にした分析を立て続けに行なった。この研究を行っている研究者に共通した見解は『睡眠時間の短い子供はよく寝ている子供より太っている』」という。睡眠時間が短過ぎたり、ストレスに常に晒されていると、「ストレス・ホルモン」であるコルチゾール( Cortisol )の分泌が増える。コルチゾールは、脂肪を蓄積させるホルモン、インスリンの分泌を誘発するため、「ストレスで太る」可能性は十分にある。
肥満の腸内細菌 環境要因のひとつとして腸内細菌叢が肥満を惹き起こしているとする研究がある。肥満の有無に、「アッカーマンシア・ムシニフィラ(Akkermansia muciniphila)という腸内細菌が関わっている」との指摘がある。この細菌が少ない人ほどBMI数値が高いという。痩せている人ではこの細菌が腸内細菌の4%を占め、太った人ではほとんどゼロである。この細菌は腸壁を覆う粘液層の表面に潜んでいる。この細菌が少ないと粘液層が薄くなり、リポ多糖が血中に入りやすいとされる。なお、リポ多糖は脂肪細胞の炎症を引き起こし、新しい脂肪細胞の形成を妨げ、既存の細胞に過剰な量の脂肪の蓄積を惹き起こすという。
肥満の食生活 世界保健機関が2003年に発表した報告では、肥満について、「高カロリー食品、動物性脂肪、ファストフード、砂糖の添加されたジュースの過剰摂取が原因である」とし、反対に肥満を低下させる要因に食物繊維の多い食事・野菜・果物を挙げている。2011年の報告では、「脂肪と砂糖の摂取を減らし、野菜、果物、全粒穀物、豆類、ナッツ(※各種ナッツは脂肪が豊富であるが)の摂取を増やすべし」と推奨している。高脂肪の食べものを摂取すると脳内に快楽物質であるドーパミンが放出されることが動物実験で確認されているが、これは砂糖を摂取した時にも同じ現象が起こる。なお、「穀物の栄養価は極めて低く、『食料』ではなく『飼料』と表現すべきだ」と断じている人物もいる(後述)。2014年、世界保健機関は肥満と口腔の健康に関するシステマティック・レビューを元に、砂糖の摂取量をこれまでの1日あたり10%以下を目標とすることに加え、5%以下ではさらなる利点があるという砂糖のガイドラインのドラフトを公開した。具体的には、砂糖の摂取量は「1日にティースプーン6杯分以内(約25g)に抑えること」としている。
肥満の治療法 肥満の治療方法としては、食事療法と運動療法の2つであると言われる。短期的には減量できるが、減量した体重を維持するのはなかなか難しく、運動と減食を続けるように、と要求されることが多い。生活習慣の改善を伴った長期的な減量成功率は、「2~20%」とされている。食生活の改善は、妊娠期における体重増加を食い止め、母子共々の健康を改善する。
肥満の食事療法 食事法の選択肢として、カロリー制限食、低脂肪食、アトキンス・ダイエット、炭水化物制限食、地中海食、古代食、ダッシュダイエット、Ornish食, Zone食が挙げられる。低脂肪食と低炭水化物食・地中海食を比較した研究では、炭水化物制限食と地中海食は同等の減量効果がみられたという。
肥満の運動 座りがちな生活は、肥満と密接な要因があり、肉体労働の減少は世界的にも進んでおり、世界人口の少なくとも30%が運動不足の状態にあるとされる。これについて、「社会における交通手段の機械化や、家庭における省力化の進行によるものだ」という見方がある。子供たちの身体運動能力レベルが不足してきているという。世界的にも、レジャー活動の一環として体を動かす機会が減っている。世界保健機関は、「世界中の人々が、余暇レクレーションに対して活発ではなくなっている」と指摘しているが、フィンランドで行われた研究では増加しているとされ、アメリカ合衆国での研究では、「レジャー活動における運動時間の明確な変化は見られない」 としている。子供でも大人でも、テレビの視聴時間と肥満リスクには「関連性がある」という。73の研究のうち63にて(86%)、メディアに接する機会が増えるほど子供の肥満が増加するとされ、テレビの視聴時間の割合が増えるほど肥満は増加すると示されている。「テレビを見て時間を過ごすのは、体重増加、過体重、肥満の危険因子である」と指摘されている。なお、肥満対策として、しばしば「食べる量を減らして運動する」と言われるが、これには「何の効果も無い」と主張する者もいる(後述)。アメリカ合衆国で何度となく行われた「減食と運動の組み合わせで肥満を防げるか」という実験は、「全て例外なく」失敗に終わっている。具体的には、参加者たちの全員が、「体重は減らず、身体から筋肉が減り、脂肪が増え、実験開始前よりも肥満になった」。それだけでなく、「各種疾患の発症を防ぐ効果も無い」という結果に終わっている。
肥満のアメリカ合衆国 アメリカ合衆国では、BMIが「30」以上で「肥満」と見なされている。2002年に取られたデータによれば、BMIが25以上の国民は65.7%で、BMIが30以上の子供は16%以上に達するという。同国では、ジャンクフードの販売について、子供の健康や食の嗜好を守るために自主規制する方向に向かっている。公的な医療保険制度が整っていないことも手伝い、経済上の理由による医療保険未加入者が約4700万人いると言われており、低所得者層ほど栄養価の高いものは食べられず、肥満や病気を患いやすくなっている。アメリカ国民の30%以上は肥満であり、単純性肥満は全肥満のうちの約90%を占めるとされる。アメリカ医学研究所(のちの『全米医学アカデミー』, National Academy of Medicine )は、「カロリーが高く、栄養価に乏しい食品のコマーシャルが子供の肥満に関わっている」としており、自主規制ないし政府の介入を求めた。シカゴ大学は、「18歳未満をターゲットにした食べ物のコマーシャルに使われている商品の90%以上が栄養価に乏しいものばかりであり、食の嗜好に影響を与える」と報告した。肥満対策のため、公立学校で糖分の多い飲料や脂肪を除去していない牛乳は販売されないように合意された。マクドナルドやペプシコを初めとする企業が、12歳以下の子供にはジャンクフードの広告をやめることで合意した。このような害悪により、肥満は現代において早急に撲滅しなければならない重大な社会問題と見なされている 。
肥満の東ヨーロッパ 2010年の時点で肥満が蔓延している。ルーマニアの研究機関によれば、ルーマニア国民の4人に1人が肥満であり、子供の肥満の場合、冷戦時代の2倍以上の8%に達するという。肥満の一歩手前の「太り気味」も含めると、5人に1人が生活習慣病のリスクを抱えているという。また、「所得の低い家庭ほど、ファストフードに頼る傾向がある」とされる。2010年1月、同国は「ジャンクフード税」の導入を発表した。ブルガリアでは、政府の方針に基づき、全国の学校の食堂や売店からスナック菓子や清涼飲料水を撤去した。
肥満のクウェート 2010年の時点で、国民の74%が「太りすぎ」であり、国民の14%は糖尿病を患っており、その数は増加しつつあるという。8歳の子供が糖尿病にかかる事例も起こっている。政府は健康的な食品の販売や運動の奨励を行うことで対策に乗り出しているという。
肥満のサウジアラビア 成人の肥満率が30%を超えている。「肥満対策」として、女児にも体育活動を解禁したという。
肥満の中国 ケンタッキーフライドチキンやピザハットを初めとしたファストフード店が、一日につき一店舗のペースで開店しているという。これは、アメリカのファストフード業界にとって、中国市場が極めて魅力的であることを示唆している。近い将来、中国は「ファストフード大国」になるだろうと見なされているが、同時にこれは肥満や生活習慣病のリスクも伴うことを意味する。2010年の時点での中国の肥満人口は3億2500万人であったが、2030年には倍増して6億5000万人に達する見通しだという。
肥満の日本 日本における肥満率は先進国最小の低さであり、BMI指数は男女とも「普通体重」階級内に収まる。男子のほうが肥満傾向にある。日本における肥満(BMI30以上)の頻度は3%とされているが、成人や小児を問わず、肥満は増加しているという。10~12歳では、男子の10%、女子の8~9%が肥満であり、その9割以上が単純性肥満であるという。健康増進法が制定されたことに伴い、肥満者には特定健診・特定保健指導が推進されている。
肥満の太平洋の島嶼国家 18歳人口のうち、肥満とされる人の比率を示す肥満率の国際比較では、南太平洋に点在する島嶼国家が上位を占める。世界保健機関が肥満率を集計した2014年のデータによれば、トップのクック諸島は50%を超え、上位10カ国に入るパラオ、ナウル、サモア、トンガ、ニウエ、マーシャル諸島、キリバス、ツバルは40%台であり、成人の半数近くが「肥満」と見なされている。トンガのポヒバ首相は2018年8月、近隣島嶼国家の首脳に、1年間のダイエット競争を呼び掛けた。
肥満のその他の国々 ブラジルにおける女性の肥満率は、1975年には24%だったのが、2003年には38%に上昇した。バングラデシュにおいては、1996年では3%だったのが、2007年には12%に上昇した。ケニアにおいては、1993年には15%だったのが、2003年には26%に上昇した。世界的に肥満が増加している背景について、「脂肪が豊富な食べ物や動物性食品が世界規模で普及したことで、日々の食事が高脂肪、高カロリーなものに変わったことが主な原因である」と考える者もいる。
肥満のカール・フォン・ノールデンによるカロリー理論 「痩身や減量というのは、食事制限や運動をせずして成功しない」と言われることが多い。「食べる量を減らして運動しろ」ということであるが、実際には、この言い分には何の根拠も無い。後述のとおり、「『食べる量を減らして運動量を増やす』は、「体重を減らす」という点においても、「病気を防ぐ」という点においても、「何の効果も無い」という結果が次々に出ている。「カロリー」を体重の増減に絡めて初めて提唱したのはドイツ人の内科医カール・フォン・ノールデン( Carl von Noorden )であり、彼が1907年に英語で発表した『Metabolism and Practical Medicine』(『代謝と実践医療』)の第3章『Obesity』(『肥満』)の中で、「The ingestion of a quantity of food greater than that required by the body leads to an accumulation of fat, and to obesity should the disproportion continued over a considerable period.」(「身体が必要としている以上の量の食べ物を摂取することが脂肪の蓄積をもたらし、その不均衡が長期に亘って続くと、肥満になるはずである」)と記述している。その後、このノールデンの主張は、体重を制御する方法やダイエットについて伝授する人間がほぼ必ずと言っていいほど口にするようになった。ノールデンによるこの著作物は、インターネットでも読むことが可能。「ヒトは消費する以上に多くのカロリーを摂取するから太るのである」という考え方を概念や理論として広めた人物の元祖はノールデンということになる。ノールデンが唱えたカロリー理論に基づく形で、1日の適正カロリーに対してほんの2%だけ余剰にカロリーを摂取し、それを10年間続けると、25kgの体重増加につながるとされる。
肥満のラッセル・ワイルダー 肥満患者を治療する臨床医の多くは、1960年代までは、「運動すれば減量できる」「座りっぱなしの生活をしていると太る」「食べ過ぎるから太る」といった考え方を「幼稚」として退けていた。ミネソタ州ロチェスター市にあるメイヨー・クリニック( Mayo Clinic )の勤務医、ラッセル・ワイルダー( Russell Wilder, 1885~1959 )もその1人である。1932年、肥満についての講演を行った際に、ワイルダーは以下のように述べている。「肥満患者は、ベッドの上で安静にしていることで、より早く体重を減らせる。一方で、激しい身体活動は減量の速度を低下させる」「運動を続ければ続けるほどより多くの脂肪が消費されるはずであり、減量もそれに比例するはずだ、という患者の理屈は一見正しいように見えるが、体重計が何の進歩も示していないのを見て、患者は落胆する」ラッセル・ワイルダーのこの主張は、カール・フォン・ノールデンが唱えたカロリー理論を全否定するものである。ワイルダーはメイヨー・クリニックにて、主に糖尿病患者を担当していたが、糖尿病だけではなく、肥満の治療にも関心が高かった。1920年代前半、ワイルダーは『ケトン食』を開発し、肥満患者・糖尿病患者にこれを処方している。これは食事において、「摂取エネルギーの90%を脂肪から、6%をタンパク質から摂取する」(極度の高脂肪・極度の低糖質な食事)というもの。元々は癲癇を治療するための食事法であったが、「肥満や糖尿病に対しても有効な食事法になりうる」としてワイルダーは開発した。炭水化物とタンパク質の摂取は可能な限り抑え、大量の脂肪分を摂取することで、身体は脂肪を分解して作り出す「ケトン体」( keto )をエネルギー源にして生存できる体質となる。この食事法は『ケトジェニック・ダイエット』( The Ketogenic Diet )として知られるようになる。『アトキンス・ダイエット』を提唱したロバート・アトキンスも、著書『Dr. Atkins' Diet Revolution』の中でケトン体について触れており、「炭水化物の摂取を極力抑え、脂肪の摂取量を増やすことで、身体はブドウ糖ではなく、脂肪をエネルギー源にして生存できる」という趣旨を述べ、体重を減らしたい人に向けて、炭水化物を避けるか、その摂取制限を奨めている。
肥満のウィリアム・バンティング 「運動は減量に何の効果も無い」と明言している人物は何人もいる。ノールデンが「消費する以上のエネルギーを摂取するから太るのだ」と唱える遥か以前から、ウィリアム・ハーヴェイ( William Harvey, 1807~1876 )、ウィリアム・バンティング( William Banting, 1796~1878 )といった人物がカロリー理論に相当するやり方を実践しており、「運動をひたすら頑張ってこなせば体重を減らせるはずだ」と考えていた。ウィリアム・バンティングは、ロンドン生まれの葬儀屋であった。バンティングは、自身が太り過ぎていたことに悩んでいた。その彼に炭水化物の摂取を制限する食事法を奨めたのは、医師であり友人でもあったウィリアム・ハーヴェイであった。ハーヴェイがこの食事法を学んだのは、フランスの医師、クロード・ベルナール( Claude Bernard, 1813~1878 )がパリで行った糖尿病についての講演を聴いたのがきっかけであった。クロード・ベルナールの講演を聴く前までのハーヴェイは、「体重を減らすには、激しい身体活動に励めば良い」と考えており、バンティングに対してそうするよう伝えた。バンティングは「早朝に2時間、ボートを漕ぐ」ことにし、テムズ川でボートを漕ぎ続けた。彼の腕の筋力は強化されたが、それとともに猛烈な食欲が湧き、その食欲を満たさねばならなくなり、体重は減るどころかどんどん増えていった。ハーヴェイは友人に対し、「運動を止めなさい」と言った。「運動には体重を減らす効果は無い」と悟ったためである。ハーヴェイから炭水化物の摂取を制限する食事法を教わり、実践したバンティングは、最終的に50ポンド(約23㎏)の減量に成功している。1863年、バンティングは、減量に成功した食事法や、減量にあたって試しては失敗を続けてきた方法をまとめた『Letter on Corpulence, Addressed to the Public』(『市民に宛てた、肥満についての書簡』)を出版した。バンティングが出版したこの小冊子の内容は、その後、何年にも亘って受け入れられ、新しい食事の模範として取り入れられるようになった。当初は自費出版で発表したが、かなりの人気を呼んだことで、一般市民に販売しようと決めた。第3版は、2007年に印刷されたものがオンラインでも読むことが可能。ノールデンが「消費する以上のエネルギーを摂取するから太るのだ」と唱える遥か以前から、ウィリアム・バンティングはカロリー理論に相当するやり方を実践していた。ほどなくして、これは減量においては何の役にも立たないことに気付いたバンティングは、『市民に宛てた、肥満についての書簡』の中で「減量に対して何の効果も無い方法」の1つに、「食べる量を減らして運動量を増やす」を挙げている。バンティングに炭水化物制限を教える前のウィリアム・ハーヴェイも、「激しい身体活動に励めば痩せられるはずだ」と考えていた。イングランドの医師、トマス・ホークス・タナー( en:Thomas Hawkes Tanner, 1824~1871 )も、 著書『The Practice of Medicine』( ISBN 978-1377805573 )の中で、「肥満を治療するにあたっての『ばかげた』治療法」の1つに、「食べる量を減らす」「毎日多くの時間を散歩と乗馬に費やす」を挙げ、「これらの方法をどんなに辛抱強く続けたところで、望む目的が達成されることはない」と断じている。『Letter on Corpulence』はまもなくベストセラーとなり、複数の言語にも翻訳された。その後、「Do you bant?」(ダイエットするかい?)、「Are you banting?」(今、ダイエット中なの?)という言い回しが広まった。この言い回しは、バンティングが実践した食事法について言及しており、時にはダイエットそのものを指すこともある。のちにバンティングの名前から、「Bant」は「食事療法を行う、ダイエットをする」という意味の動詞として使われるようになり、スウェーデン語にもこの言葉が輸入されて使われるようになった。南ローデシア(現在のジンバブエ)出身の科学者ティム・ノークス( Tim Noakes )は、「低糖質・高脂肪ダイエット」と名付け、この食事法を普及させた。サイエンス・ジャーナリスト、ゲアリー・タウブス( Gary Taubes )による著書『Good Calories, Bad Calories』(2007年)では、「A brief history of Banting」(「バンティングについての簡潔な物語」)と題した序章から始まり、バンティングについて論じている。炭水化物の摂取を制限する食事法についての議論の際には、しばしばバンティングの名前が挙がる。なお、バンティングは、この食事法が広まった功績は、自分にではなく、「(この食事法を教えてくれた)ハーヴェイにある」と主張した。
肥満の「減食と運動は無意味」 1990年代初期、アメリカ国立衛生研究所( The National Institutes of Health )は、『Women's Health Initiative』と題した、約10億ドルに及ぶ研究を行った。この中で、「低脂肪の食事で心臓病や癌を本当に予防できるか」という研究も同時に行われた。5万人近くの女性を登録し、2万人をランダムに選び、果物・野菜・全粒穀物・食物繊維が豊富なもの・脂肪が少ないもの・・・これらを優先的に食べるよう指示した。この食事を続ける意欲を保つため、女性たちは定期的にカウンセリングを受けた。毎日の食事の摂取カロリーは360kcal分減らし、少ない量を食べ続けた。また、参加した女性たちは「少なく食べるように」「脂肪が少ないものを食べるように」「運動するように」という指示も与えられ、減食と運動を忠実にこなし続けた。この生活を8年間続けた結果、女性たちは(実験開始前と比べて)1人あたり平均で約1kg体重が減ったが、その腰回りは膨らんだ。この事実が意味するところは、「彼女らの身体から減ったのは脂肪ではなく、筋肉である」ということである。また、研究者たちは「脂肪分の少ない食事は、心疾患、癌、その他の病気を予防できなかった」とも報告している。彼女らが受けたカウンセリングおよび食事の意味として、意識的か無意識的かを問わず、「少なく食べるよう心掛けた」ことである。「消費カロリーが摂取カロリーを上回れば体重は減る」のが本当であるのなら、この試験に参加した女性たちが太った理由が説明できなくなる。脂肪は1kgにつき、約7000kcalのエネルギーに相当する。彼女らが、毎日の食事の摂取カロリーを360kcal減らしていたのなら、実験を開始して3週間で約1kgの脂肪が減っていたはずであり、1年続ければ約16㎏の脂肪が減る計算になる。試験開始の時点で、参加した女性たちの半数は肥満体であり、大多数は少なくとも過体重であった。ハーバード大学の研究者ブルース・ビストリアン( Bruce Bistrian )は、「減食(食べる量を減らす)は、肥満に対する処置にも治療法にもならない。最も目立つ症状を一時的に緩和する方法でしかない。もしも減食が肥満に対する処置にも治療にもならないとするなら、これは『過食は肥満の原因ではない』ことを示す」と述べている。「過食が肥満の原因である」という考えに疑問を投げかけるあらゆる理由の中で最も明確なものは、「肥満は、食べる量を減らしても治せない」という事実である。1977年、アメリカ合衆国において、運動熱の高まりが強まっていたころ、アメリカ国立衛生研究所は、肥満および体重制御についての2度目の会議を主催した。この会議に集まった専門家たちは、「体重を制御するという点において、運動の重要性は、想像している以上に低い。ヒトは運動量を増やせば、同時に食べる量も増えがちになり、運動による消費エネルギーの増加が食べる量の増加に勝るのかどうか、それを予測するのは不可能である」という結論に達した。カリフォルニア州ローレンスバークレー国立研究所( Lawrence Berkeley National Laboratory )の統計学者、ポール・ウィリアムズ( Paul Williams )と、スタンフォード大学の研究者ピーター・ウッド( Peter Wood )は、普段からよく走る習慣のある13000人を集め、これらのランナーたちの1週間の累計走行距離と、年ごとの体重の変化を比較する研究を行った。ピーター・ウッドは、運動が健康にどのような影響を及ぼすのかについて、1970年代から研究を行っていた人物でもある。この13000人のランナーについての研究では、最もたくさん走った人ほど最も体重が少ない傾向こそあったが、これらのランナー全員、「年を重ねるごとに体重が増えていく」傾向にあった。2007年、ハーバード大学医学部長ジェフリー・フライアー( Jeffrey Flier )とその妻テリー・マラトス・フライアー( Terry Maratos-Flier )は、雑誌『Scientific American』に論文を寄稿し、その中で「ヒトの食欲とエネルギーの消費について、この2つは人間が意識的に変えられるような代物ではない」「この2つの要素のバランスの補正と結果が脂肪組織の増減につながるなどという、そんな単純な変数ではない」と述べている。2007年8月、アメリカ心臓協会( The American Heart Association )とアメリカスポーツ医学会( The American College of Sports Medicine )は、身体活動と健康に関するガイドラインを共同で発表した。この団体の専門家たちは、週に5日、1日に30分程度の精力的な運動が「健康を保ち、促進するために必要である」と述べた。しかし、「肥満になることや痩せたままでいることに対して、運動がどのような影響を与えるのか」という質問になると、彼らは以下のようにしか答えられなかった。「1日あたりのエネルギー消費の多い人は、それが少ない人に比べて、時間とともに体重が増える可能性が低い、と仮定することは理にかなっている。これまでのところ、この仮説を支持する証拠となるものについては、『説得力がある』とは呼べない」ゲアリー・タウブスは、「We don't get fat because we overeat; we overeat because we're getting fat.」(「ヒトは過食するから太るのではなく、身体が今まさに太りつつあるから過食に走るのである」)と明言している。また、「肥満は、エネルギーバランス、カロリー理論、過食、熱力学、物理法則とは、何の関係も無い」「過食や運動不足は肥満の原因ではなく、あくまで『結果』でしかない」「『肥満』とは『栄養過剰』ではなく、『栄養失調』の一種である」と断じている。
肥満のアトキンス・ダイエット アメリカ合衆国の医師、ロバート・アトキンス( Robert Atkins )は、1959年にニューヨーク・マンハッタンにあるアッパー・イースト・サイドにて、心臓病および補完代替医療の専門医として開業した。開業したての頃のアトキンスの仕事はあまりうまくいかず、さらには身体が太り始めたことで、アトキンスは意気消沈していた。ある時、アトキンスは、デラウェア州にある会社、デュポン社( DuPont )に所属していた、アルフレッド・W・ペニントン( Alfred W. Pennington )が研究し、従業員に提供していた食事法を発見した。1940年代、ペニントンは、過体重か太り過ぎの従業員20人に、「ほぼ肉だけで構成された食事」を処方していた。彼らの1日の摂取カロリーは平均3000kcalであった。この食事を続けた結果、彼らは平均で週に2ポンド(約1㎏)の減量を見せた。この食事を処方された過体重の従業員には、「一食あたりの炭水化物の摂取量は20g以内」と定められ、これを超える量の炭水化物の摂取は許されなかった。デュポン社の産業医療部長、ジョージ・ゲアマン( George Gehrman )は、「食べる量を減らし、カロリーを計算し、もっと運動するようにと言ったが、全くうまくいかなかった」と述べた。ゲアマンは、自身の同僚であるペニントンに助けを求め、ペニントンはこの食事を処方したのであった。アトキンスは、ペニントンが実践していたこの食事法からヒントを得て、患者を診療する際に「炭水化物が多いものを避けるか、その摂取量を可能な限り抑えたうえで、肉、魚、卵、食物繊維が豊富な緑色野菜を積極的に食べる」食事法を奨め、それと並行する形で本を書き始めた。1972年、『Dr. Atkins' Diet Revolution』(邦題:『アトキンス博士のローカーボ(低炭水化物)ダイエット』)を出版し、その数年後に補完代替医療センターを開設した。2002年、アトキンスは心臓発作を起こして倒れた。これについて、「高脂肪の食事が潜在的にどれほど危険であるかが証明された」という批判を数多く浴びた。しかし、複数のインタビューで、アトキンスは「私が心停止になったのは、以前から慢性的な感染症を患っていたからであって、脂肪の摂取量の増加とは何の関係も無い」と強く反論した。なお、「食事に含まれる脂肪分の摂取と、肥満や各種心疾患とは何の関係も無い」というのは、炭水化物を制限する食事法を奨める人物に共通の見識である。2003年4月、ニューヨークに大雪が降り、地面は凍結した。4月8日、アトキンスは通勤のため、凍った路上を歩いている途中、足を滑らせて転倒して頭部を強打し、意識不明の重体となり、集中治療室で手術を受けるも、意識が戻らないまま死亡している。
肥満の過食実験 2013年、イングランド人のサム・フェルサム( Sam Feltham )は、1日に5000kcalを超えるエネルギーを摂取する過食実験を自らの身体で実施した。最初の21日間で栄養素の構成比を「脂肪53%(461.42g)、タンパク質37%(333.2g)、炭水化物10%(85.2g)」(「低糖質・高脂肪な食事」)に設定し、1日に「5794kcal」のエネルギーを摂取する生活を21日間続けた。21日後、フェルサムの体重は1.3kg増加したが、腰回りは3cm縮んだ。フェルサムの身体からは脂肪が減り、除脂肪体重が増加し、身体は引き締まった。次に、フェルサムは摂取エネルギーの構成比を「炭水化物64%(892.7g)、タンパク質22%(188.65g)、脂肪14%(140.8g)」(「高糖質・低脂肪な食事」)に変え、1日の摂取エネルギーを「5793kcal」に調節し、再び21日間過ごした。21日後、フェルサムの体重は7.1kg増加し、腰回りは9.25cm膨らみ、顎の脂肪も膨らんでいた。なお、この「炭水化物の摂取を増やし、脂肪の摂取を減らす食事」は、アメリカ糖尿病学会( The American Diabetes Association )やアメリカ心臓協会( The American Heart Association )が推奨している「栄養バランスのとれた食事」である。もう1つの実験として、フェルサムは「ヴィーガン食」(Vegan Diet, 完全菜食)による過食実験も実施した。ヴィーガン食は基本的に「高糖質・低タンパク・低脂肪」な食事である。1日の摂取エネルギーを「5794kcal」に調節したヴィーガン食で再び21日間過ごした。21日後、フェルサムの体重は4.7kg増加し、腰回りは7.75cm膨らみ、顎の脂肪も膨らみ、体脂肪率は12.9%から15.5%に上昇した。
肥満の砂糖と肥満 砂糖を摂取すると、高確率で肥満になる。砂糖は体内に入ると、血糖値の急上昇および高血糖の長時間の持続、インスリンの大量分泌、インスリン抵抗性、これらを同時に惹き起こす。果糖を投与された動物は、体重の制御ができなくなるだけでなく、摂食行動が止まらなくなり、体重が増えて体も動かさなくなることが動物実験で示された。果糖は、インスリンやレプチンを初めとするホルモンの受容体を破壊し、ホルモン抵抗性を惹き起こし、糖尿病の合併症・内臓脂肪の蓄積・脂肪肝をもたらす直接の原因となる。野生の肉食動物や、狩猟採集生活を送っている集団は、肥満になる可能性は極めて低いが、これは「炭水化物が多いもの・糖分・砂糖を摂取する機会がほぼ皆無であるから」である。英語圏においては、『Sugar Addiction』(『砂糖中毒』『砂糖依存症』)という言い方が広まっており、「砂糖に対する欲求や、砂糖を多く含んだものが止められないという砂糖に対する渇望感は、中毒症状の一種であり、その中毒症状を惹き起こすのは砂糖である」という見方が広まっている。アメリカ合衆国の歯科医師ウェストン・プライス( Weston Price )は、狩猟採集生活を送っている集団の食生活についての研究をまとめた報告書『食生活と身体の退化―先住民の伝統食と近代食その身体への驚くべき影響』(1939年)の中で、「砂糖を食べるようになってから、虫歯を患ったり、栄養不足に伴う病気が増えた」と述べている。ジョン・ユドキンは、著書『Pure, White and Deadly』(1972年)の中で、「肥満や心臓病を惹き起こす犯人は砂糖であり、食べ物に含まれる脂肪分は、これらの病気とは何の関係も無い」と断じている。ユドキンの主張を支持する者の1人として、カリフォルニア大学の神経内分泌学者、ロバート・ラスティグ( Robert Lustig )がおり、カリフォルニア大学が製作・公開したラスティグによる講演『Sugar: The Bitter Truth』の中で、「砂糖は毒物であり、ヒトを肥満にさせ、病気にさせる」「砂糖の含有量が多いものには課税すべきだ」と断じており、著書『Fat Chance』の中でもそのように主張している。また、「砂糖はカロリーがあるだけで栄養価は皆無であり、肥満をもたらすだけでなく、タバコやアルコールと同じように中毒性が強く、含有する成分の果糖が内分泌系に悪影響を与え、心臓病や心臓発作、2型糖尿病を発症するリスクを高める」として、「砂糖の含有量が多いものには課税すべきである」との主張を科学雑誌ネイチャー誌( 『Nature』 )に発表した。ゲアリー・タウブスは、2016年に出版した著書『The Case Against Sugar』(『砂糖に対する有罪判決』)の中で、「砂糖は『中毒性の強い薬物の一種』であり、ヒトを肥満にさせるだけでなく、心疾患の原因でもあり、健康を脅かす」「肥満とは、身体がホルモン障害を惹き起こした結果であり、そのスイッチを入れるのは砂糖である」と断じている。カナダの腎臓内科医ジェイスン・ファン( Jason Fung )も、「砂糖の摂取は、血糖値および血中のインスリン濃度を速やかに急上昇させ、その状態を長時間に亘って持続させ、さらにはインスリン抵抗性をも同時に惹き起こす」「砂糖や人工甘味料は、インスリン抵抗性を惹き起こす直接の原因となる」「『どれくらいの量なら砂糖を摂取してもいいか』というのは、『どれくらいの量ならタバコを吸ってもいいのか』という質問と同じである」「砂糖を食べると太る。この事実に異を唱える者はいないだろう」「太りたくない、体重を減らしたいのなら、真っ先にやるべきなのは、糖分を厳しく制限することである」と断じている。
肥満の「インスリンがヒトを太らせる」 体重を目標もしくはそれ以下まで落としたものの、その後再び体重が増えてダイエット開始前と同じ体重に戻ったり、以前よりも体脂肪率が増加する。これは俗にリバウンドと呼ばれている。減量とリバウンドを繰り返すと、痩せにくく、太りやすい状態となる。体重のリバウンド現象については、インスリンおよびインスリン抵抗性が原因と考えられている。ジェイスン・ファンは、「リバウンドとは、インスリンが設定した体重に戻ろうとすること」と述べている。「体重の『設定値』を決めるのはこのインスリンであり、インスリンが過剰に分泌される状態およびインスリン抵抗性が続くと、インスリンが『体重の設定値のつまみを回す』。こうなると、何をどうしようとも、身体はインスリンが設定した体重に戻ろうとする」「体重のリバウンドが起こるのは、あなたの意志が弱いわけでも、努力が足りないわけでもない。インスリンがその人の体重を決める」という。また、身体活動および運動の効果に対しても、「体重を減らすことを目的に、食べる量を減らして運動をする習慣を付ける実験は、いずれも例外なく失敗に終わっている」「どれだけ運動を頑張ってこなし、食べる量を減らしたところで体重を減らす効果は無いことは証明済みである」「運動する人に比べて、運動しない人ほど痩せている」と結論付けている。「やろうと思えば誰でも太らせることが可能だ。インスリンを注射するだけでいい。インスリン濃度が高い状態が続く限り、どんどん太り続ける。何をどうしようとも無駄である」と述べ、「『肥満ホルモン』ことインスリンがヒトを太らせる」と結論付けている。炭水化物の摂取制限を奨める人物も全員例外なく、「インスリンが出るから太る」という結論で一致しており、「過食や運動不足は肥満の原因ではなく、あくまで『結果』でしかない(「身体が太って脂肪が蓄積したあとに、過食したり、動かなくなる」)」と断じている。なお、インスリノーマとはインスリンの大量分泌を促す腫瘍のことであり、これを摘出しない限り体重も体脂肪も増加し続け、肥満の原因となる。また、インスリンを注射するか、インスリンと同様の作用を持つ薬を注射しても肥満になる。インスリンの濃度が高い状態では、身体は一方的に太り続けていく。これは、その人がどれぐらい食べたか、運動していたかどうかは、何の関係も無い。1965年、医学物理学者のロザリン・サスマン・ヤロウ( Rosalyn Sussman Yalow )と、医師で化学者のソロモン・アーロン・バーソン( en:Solomon Aaron Berson )の2人は、「脂肪を脂肪細胞から放出させ、それをエネルギーにして消費する」ためには、「“Requires only the negative stimulus of insulin deficiency.”」(「『インスリン不足』という負の刺激以外は必要ない」)と明言した。ハーバード大学の元医学部長ジョージ・F・ケイヒル・ジュニア( en:George F. Cahill Jr., 1927~2012 )は、「Carbohydrates is driving insulin is driving fat.」(「脂肪を操るインスリンを、炭水化物が操る」)との言葉を残している。
肥満の断食と肥満治療 ジェイスン・ファンは「血中のインスリン濃度が低い状態を維持することにより、インスリン抵抗性と肥満を治療し、安定して体重を減らす」手段について、「間欠的に行う断食」( Intermittent fasting )を推奨している。また、断食を382日間続け、456ポンド(約207㎏)あった体重を180ポンド(約82㎏)まで減らし、最終的に276ポンド(約125㎏)の減量に成功したスコットランド人、アンガス・バルビエーリ( Angus Barbieri )がいる。バルビエーリは一切の固形物を摂取することなく、水、茶、ブラックコーヒー、ビタミンとミネラルのみで生活することで、自分で肥満を治療した。バルビエーリが行った断食は、1971年版のギネスブックにも登録されている。
鎖骨のヒトの鎖骨 ヒトの鎖骨は、胸骨と肩甲骨を連結する事で肩構造を支持し、また各種筋肉の起始基盤として機能する。ウマ、イヌ、ウシ、ゾウの様な走行性の哺乳類等では退化している場合も多い。鎖骨がないといわゆる抱きつく所作(前脚を内側に曲げ保持すること)が困難で鎖骨のない動物は木登りができないことから、早期に草原に進出した動物は長距離移動に適応して鎖骨が退化し、長期間森林に生息した動物には鎖骨が残っているのではないかと考えられている。鳥類では左右の鎖骨が癒合し、暢思骨または叉骨(en:Furcula)と呼ばれる。ヒトの鎖骨は、人体の中で最も折れ易い骨であり、肩に加わる衝撃を吸収するための、クラッシャブルゾーンの役割を果たしている。こうした特徴に着目し、3点式や4点式のシートベルトや命綱などが開発されている。
鎖骨の鎖骨と関節する骨 内側端で胸骨と関節し胸鎖関節をなし、外側端で肩甲骨と関節し肩鎖関節をなす。
鎖骨の語源 ラテン語名claviculaは、clavis(「鍵」)の指小形で、「小さな鍵」の意味。古くは「鎖骨」とは、菩薩の身体にあると言われる鎖状(あるいは蔓状)に繋がった(架空の)骨を指し、仏でいう舎利に相当する聖遺物であり、高僧への賛辞にも用いた。漢方典籍では主に「血盆骨」の名が用いられ、『解体新書』では前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)もこの語を当てたが、『重訂解体新書』では大槻玄沢が訳し直し「鎖骨」の語を当てている。この鎖骨は血盆骨の別名の一つで、古くは1247年に出版された法医学書洗冤集録に使用が見られる。他に「鎖子骨」「𩩓子骨」「缺盆骨(欠盆骨)」「拄骨」「巨骨」とも書く。鎖骨内側の窪みを「缺盆」と言う。鎖骨外端の経穴を巨骨穴と言う。近年では、「鎖骨」という名称は、昔の中国で囚人を捕らえておくために、この骨の後に穴をあけて鎖をとおしたことに由来するなどと主張する者もいる。
ブルータスの心臓-完全犯罪殺人リレーのテレビドラマ 2011年6月17日、フジテレビジョン系列の「金曜プレステージ」において、「東野圭吾3週連続スペシャル」の第2弾として放映された。視聴率16.1%。
ヨハン・フィリップ・クリーガーの生涯 少年時代にニュルンベルクの音楽家ヨハン・ドレクセルとヴィオラ・ダ・ガンバ奏者ヨアヒム・ガブリエル・シュッツより初期の音楽教育を受ける。しかしこの期間は、とりわけオルガン演奏に関して、オルガニストのパウル・ハインラインに影響を受けた。その後デンマークに移り、コペンハーゲンにて宮廷オルガニストのヨハネス・シュレーダーにオルガン演奏を、宮廷作曲家のカスパル・フェルスター2世に作曲を師事した。同時にペーター教会のオルガニストにも就任する。短期間の研修期間を終えると、コペンハーゲンの主要な教会でオルガニストとして活動を開始し、1667年ごろにはノルウェーのクリスチャニアのオルガニストに任命される。帰国してバイロイトに行き、同地の辺境伯クリスティアン・エルンストの宮廷オルガニストとして活動を開始し、後に宮廷楽長にまで昇進する。フランス王国との戦争と、それに続く結果として王侯貴族の債務がかさみ、音楽活動の削減が余儀なくされるとクリーガーは解雇を余儀なくされた。1673年にイタリアに行き、ヴェネツィアでヨハン・ローゼンミュラーに作曲を、ロヴェッティーニ(Giovanni Battista Volpe)にオルガン演奏を師事する。ローマではアバティーニ(Antonio Maria Abbatini)とベルナルド・パスクィーニのもとで研鑚を重ねた。その後さらにヴェネツィア入りしてオペラを研究する。1675年にウィーンにおいて、神聖ローマ皇帝レオポルト1世に御前演奏を行い、貴族に列せられる。その後バイロイトに戻り、短期間フランクフルトやカッセルを訪問するが、いずれにおいても就職の機会は得られなかった。1677年にザクセン=ヴァイセンフェルス公国のハレにて、室内楽およびオルガンの演奏家に指名され、1678年に宮廷副楽長に、1680年に宮廷がヴァイセンフェルスに移されると宮廷楽長に任命された。ハレのロジーネ・ヘレネ・ニコライと結婚したことにより、ヘンデルの一族の縁戚となった。ヘンデルの音楽家としての才能を見出したのもヨハン・フィリップ・クリーガーであったと言い伝えられている。クリーガーの作品は、今日ほとんど忘れ去られているが、生前に上演された声楽曲だけでも作品数は優に2000曲を超えている。弟ヨハン・クリーガー(1651年 - 1735年)も作曲家である。
民防衛隊の隊員 20歳から40歳までの男性が対象。なお対象年齢男子のうち、国会議員、地方議会議員、軍人、予備役軍人、警察官、義勇消防隊(消防団)などは除外(基本法第18条第1項1~18号)。女性は志願すれば入隊が可能。発足当初、民防衛隊の対象年齢は17~50歳であったが、1983年に20~45歳となり、2007年からは20~40歳となっている。
民防衛隊の組織 地域民防衛隊と職場民防衛隊に分かれ、地域では統長(自治会長)や班長(隣組長)が隊長となる。民防衛隊員の総数は628万人に上り、年10日、50時間の限度で訓練を受け、非常時には消防防災庁長または地方自治団体長(局地的な場合)が出動を命じる。国民の義務として無給であるが、業務遂行中に死亡すれば、補償制度はある。また申告違反には過料が課される。
柴小聖の略歴 2008年、ふかわりょうが別名でプロデューサーを務めたアイドルユニット・COSMETICSの一員としてデビュー。前後して本格的にモデル活動を展開。2009年末、COSMETICSを卒業。2010年2月、個人ブログをスタート。2011年、アーティストハウス・ピラミッドに移籍し、イメージDVDを初リリース。2012年6月、日テレジェニック2012に選ばれ、ロンドンオリンピックのサポーターガールを務めた。2017年よりフリーで活動。2018年よりエースクルー・エンタテインメントに所属することとなった。天元突破グレンラガンシリーズや舞台版てーきゅう、戦国BASARA vs Devil May Cryなど舞台を中心に活動。
スカイラーク (カナダのバンド)の歴史 1962年、ヒューストン・コルト・45's(フォーティーファイブス)、のちのヒューストン・アストロズの傘下AAAチームとして「オクラホマシティ・89ers(エイティシクサーズ)」創設。1973年、クリーブランド・インディアンズと提携。1976年、フィラデルフィア・フィリーズと提携。1983年、テキサス・レンジャースと提携。1998年、「オクラホマ・レッドホークス」に改名、本拠地もオールスポーツ・スタジアムからサウスウエスタン・ベル・ブリックスタジアム(現・チカソー・ブリックタウン・スタジアム)に移転。2009年、「オクラホマシティ・レッドホークス」に改名。2010年9月20日に再びアストロズと提携することが決まった。2012年9月11日にアストロズとの契約を2014年まで延長した。2014年9月18日にロサンゼルス・ドジャースがマンダレー・ベースボールから球団を買収した。12月3日に球団名を「オクラホマシティ・ドジャース」に変更することが発表された。
スペースシャトル軌道制御システムのストーリー 女子大学というほかには、スポーツや学術研究等これと言って特色が無い創立49年の「霧鳴(きりなり)女子大学」にも少子化の影響が出始めていた。そこで、創立50周年を機に男女共学化へと舵を切るが、定員400名の募集に対して、男子の出願は5人しかいなかった。結局、男子は全員合格になったものの、元は女子大学であったため、男子トイレが全体に1ヶ所しかなかったりと肩身の狭い5人。そんな中、大学での男子の人権を勝ち取るためにという名目で柳沢が第2写真部設立を呼びかけ、他の4人も入部することに。しかし、数日後、大学理事長から写真部を1つにするように指示が出されてしまい、写真部と第2写真部で試合をすることになってしまう。
マイナス人生オーケストラの概要 2008年9月結成。ポップでキャッチーでディスコでパンクロック。されど総てが毒まみれ。音楽を主とした、なんか面白い事を追求する集団。ライヴ公演を自己啓発セミナァ、君達を負リークス(フリークス)と呼ぶ。ライヴは自己啓発セミナァ。 素っ頓教の教えに則り、プチ運動会的な演奏を行う。ヲタ芸を打ち、ジュリアナ扇子が舞う。通称[本隊]は人間4人+虫1匹での活動。コントがあったり、飛び入りメンバーがいたり、色々カオスだったりする。思わず豆腐も空を飛ぶ。
浦朋恵の経歴 岐阜県高山市出身。立命館大学卒業。中学時代にクラリネットに出会う。大学時代にワールドミュージック系のサークルに参加、クレズマーやジプシー音楽を演奏するバンドで演奏活動をはじめる。その後、大阪に拠点を移し、後期ラリーパパ&カーネギーママのメンバーとしても活動するが、2006~2008年にかけて断続的に渡米、バリトン・サックスをメイン楽器に持ち替え、レゲエやリズム&ブルースに影響を受けたオリジナル楽曲を手掛けるようになる。2010年にディスクユニオンからソロ・デビュー。オリジナル楽曲を中心とした自身のレコーディング及びライブ活動、CM音楽制作を続ける他、EGO-WRAPPIN’、ハナレグミ、ムッシュかまやつ、ビッグ・ジェイ・マクニーリー、カールトン&ザ・シューズ、リロイ・シブルスらのレコーディングやライブにも参加している。長見順率いるパンチの効いたオウケストラのメンバーでもある。2013年頃から肉食コラムニスト、タレントとしても活動の幅を広げ、雑誌『Meets』の肉食コラム連載、関西の情報番組『ごきげんライフスタイルよ~いどん!』や『おはよう朝日土曜日です』等にも出演している。また、ぽっちゃり系タレントとしてもバラエティ番組『10匹のコブタちゃん~ヤセガマンしないTV~』や『明石家さんまのコンプレッくすっ杯』 等に出演した。2012年に大阪市中央区日本橋で自身が経営するバー「DIDDLEY BOW」をオープン。
浦朋恵のアルバム 2010年『Rockin' At The 1,000,000 Restaurants(ロッキン・アット・ザ・食堂街)』(ディスクユニオン/マイ・ベスト!)CD/アルバム2012年『walkin' With Mr.Bimbo』(ディスクユニオン/マイ・ベスト!)CD/アルバム2013年『Got You On My Mind』(ディスクユニオン/マイ・ベスト!)CD/ミニ・アルバム2014年『ウラチャンのブンガワンソロ』(ディスクユニオン/マイ・ベスト!)LP/ベスト・アルバム2015年『ナツメヤシの指』(P-VINE)CD/アルバム
浦朋恵のシングル 2013年『Twilight Time b/w Version』(ディスクユニオン/マイ・ベスト!)シングル2016年『橋からこっちの話 b/w 魅惑のエキゾチカ』(P-VINE)シングル
頗梨采女の神仏習合と分離 牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。
頗梨采女の伝承 八大竜王の1柱で、娑伽羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘であり、また八王子神(八将神)の母であるともされている。 『色葉字類抄』の祇園では、牛頭天王の后で娑伽羅竜女といい八王子ら84654神が誕生したとし、『簠簋内伝』では「歳徳頗梨采女也、八将神母也、容顔美麗忍辱慈之躰也」として方位神の歳徳神と同一視される(ただし異論もある)。『祇園牛頭天王縁起』では南海の娑伽羅竜宮城に住み、金毘羅女、婦命女の2人の姉がおり、竜王の第3女とされている。
中道信号場の構造 2線の信号場。現在は下り(香椎・宇美方面)の列車が停車して上り(西戸崎方面)の列車を待避する方式で運転されている。
Xing Worldの概要 消費者庁により勧誘に問題があると指摘をされ業務停止の行政処分を受けた株式会社ビズインターナショナルが勧誘をしていた国産型仮想空間サービス。日本そのままの世界を仮想空間の中に投影し、仮想の社会が混乱しないよう自治体の設置やアバターによるキャラクターライセンスを提携するなど使い勝手の良さをうたっていた。2009年10月15日に一般公開されるも、実際にはシステム開発を担当したフレパー・ネットワークスが提供する仮想空間プラットフォーム「Phantom」のオープンβテストサイトに誘導され、X-iとしての実体はほぼ存在しないことが確定した。なお、2009年4月2日、宮城県はビズインターナショナルに対し、消費生活条例に基づく行政指導を行ったと発表、更に同年9月2日には、特定商取引法に基づく業務停止命令を行ったと発表した。詳細は行政処分までの経緯を参照。さらにその後2009年11月27日には消費者庁から6ヶ月間の業務停止処分が下り、新規の販売活動が全国的に差し止められた。2010年4月28日に、ビズインターナショナルによるマルチ商法に絡み、「仮想空間の開発は不可能だったのに、多額の入会費用を支払わされた」などとして、大阪府などの会員らが、ビズ社に対し計700万円の支払いを求める訴訟を、大阪地裁に起こした。 2010年5月27日には、埼玉県警が特定商取引法違反(不実の告知)の疑いで、ビズインターナショナル、フレパー・ネットワークスなど関係先約20箇所を家宅捜索した。
The Big Six (ガーナ)のAWAM不買運動 1948年1月、ヨーロッパからの輸入品に対する組織的不買運動が発生した。この運動の目的は、国際貿易を行う西アフリカ商人協会(AWAM)に商品の値下げを要求する事だった。2月、これに複数の暴動が連なった。この運動は2月28日に終了する予定だった。
The Big Six (ガーナ)のクリスチャンボルグ十字路銃撃戦 2月20日、エンクルマとダンクアは、黄金海岸連隊や王立西アフリカ辺境軍として第二次世界大戦で戦った帰還兵と会い、不遇の立場に置かれた彼らを抗議運動に駆り立てた。2月28日、クリスチャンボルグ十字路銃撃戦が発生した。植民地政府の所在するクリスチャンボルグ城に向かって、帰還兵達が嘆願書を提出するために行進していた。Colin Imray警視が帰還兵に解散を命じたが、彼らは拒否した。警視は部下に丸腰の帰還兵を撃つよう命じ、部下が拒否すると、自ら部下3名を射殺した。その結果アクラ暴動が新段階に進み、外国人の店が襲撃された。これは5日間続いた。
The Big Six (ガーナ)のThe Big Sixの逮捕 同日、これらの暴動を受けて、統一黄金海岸会議はロンドンの国務長官に「暫定政府に直ちに権限を委譲するよう」電信を送った。また、会議はGerald Creasyを暴動への対処を誤ったとして非難した。3月1日、暴動法が施行され、統一黄金海岸会議の6人の指導者は逮捕された。6人は北部の辺境の地に拘留された。これ以降、彼らはThe Big Sixと呼ばれるようになり、人気が増していった。3月8日、複数の教師と学生がThe Big Sixの拘留に反対するデモを行ったが、彼らは皆行方不明になった。
シトクロムの所在 好気呼吸を行う生物群からまず発見されているが、現在では全生物に見つかっているといって良い(光合成を行う生物、嫌気呼吸を行う生物からも見つかっている)。16S rRNA 遺伝子の塩基配列とともに、シトクロムのアミノ酸配列も系統解析に用いられることが多い。膜結合型シトクロムは真核生物であればミトコンドリア内膜、細胞質内膜系など膜に存在している。原核生物では細胞膜に存在する。植物など光合成を行う生物では葉緑体、色素顆粒にも存在する。また、可溶型のシトクロムも存在し、そうしたタイプでは細胞質に存在している。
シトクロムの役割 シトクロムはヘム鉄を含有しているので酸化還元電位が高く、概して電子伝達系に存在している。特に呼吸鎖複合体IIIは本体がシトクロムの複合体(シトクロムbc₁複合体)であり、複合体IVではシトクロムcを酸化して電子伝達を行う。光合成においてもシトクロムb₆/f複合体(呼吸鎖複合体IIIに似る)として存在し、同様に酸化還元反応に寄与している。嫌気呼吸においては硝酸還元や硫酸還元などで電子供与体として機能している。またヘム鉄にはFe²⁺(還元型)とFe³⁺(酸化型)が存在し、これらが可逆的に変換することにより電子伝達を可能にしている。各々の酸化還元電位は様々な酸化還元電位を持つシトクロムの存在は生物体での高いエネルギー効率に寄与しているといえる。特殊な役割として、ミトコンドリアのシトクロムcがアポトーシスに関与する(細胞質に漏れることでアポトーシスの引金を引く)ことが知られている。
慶珊寺の所在 神奈川県横浜市金沢区富岡東4-1-8
小説家の休暇の作品背景 『小説家の休暇』を執筆していた1955年(昭和30年)の夏の前には、『沈める滝』『白蟻の巣』を書き終え、『幸福号出帆』を連載中の時期であった。『小説家の休暇』を擱筆した後の9月からは肉体改造(ボディビル)に乗り出し、11月には、次作の取材のため京都の金閣寺へ出発し、すでに長編『金閣寺』の構想が練られている最中でもあった。前年1954年(昭和29年)には『潮騒』がベストセラーとなり、それまでにも近代能楽の戯曲『邯鄲』『綾の鼓』『卒塔婆小町』などが高い評価を受け、劇作家としても成功し、「鉢の木会」の一員にもなるなど作家として大きく成長していた時期であった。私生活でも肉体関係を持った恋人(豊田貞子)ができ、結婚を視野に交際中の頃であった。三島は1955年(昭和30年)7月5日の項で、次のように語っている。このごろ外界が私を脅かさないことは、おどろくべきほどである。外界は冷え、徐々に凝固してゆく。さうかと云つて、私の内面生活が決して豊かだといふのではない。内面の悲劇などといふものは、あんまり私とは縁がなくなつた。まるで私が外界を手なづけてしまつたかのやうだ。そんな筈はない。決してそんな筈はなし、又そんなことができる筈もない。(中略)大体において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによつて、全部成就してしまつた。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて。ほかに人生にやることが何があるか。やがて私も結婚するだらう。青臭い言ひ方だが、私が本心から「独創性」といふ化物に食傷するそのときに。 — 三島由紀夫「小説家の休暇」これ以前の三島は絶えず外界に脅かされ、内面に激しく渦巻く悲劇に必死に対処してきていたが、急にそれが消えたことを吐露し、その現象を、クレッチマーが説いた分裂性気質の段階症例に倣いつつ自己分析して、氷のように硬く〈皮革のやうに〉ごわごわしたものが身のまわりを包んで鈍麻しているものと解析している。そういった状態で迎えた30歳代を一区切りとして、様々な断想や評論がここで綴られ、代表作となる次の『金閣寺』では、これまでの半生を総括するような長編小説として取り組まれていくことになる。
小説家の休暇の評価・研究 『小説家の休暇』は、三島の数多い評論の中でも定評のある作品だが、同時代評でも総じて評価は高く、中村真一郎は雑誌『群像』の書評欄で大きな讃辞を送っている。小林信彦は、三島の評論を読んでいた当時を振り返りつつ、「三島由紀夫を小説の天才とすれば、批評・評論は超天才ですね。 『現代小説は古典たり得るか』でも『小説家の休暇』でもいいのですが、眠気が去り、頭がすっきりするほど面白い」と評している。自身の文壇デビュー作『太陽の季節』が『小説家の休暇』の中で取り上げられた石原慎太郎も、「あの人が『小説家の休暇』というソフィスティケイテッドなエッセイ集を出したときに、中にチラチラッと一、二行出てくるんですよ。それを見てぼくは文學界新人賞をもらったときよりもジーンときた。ついにこの人の目にとまったという感じがあってね」と述懐し、三島の評論を愛読していたことを語っている。上田真は、三島がタイトルに〈休暇〉と銘打ち、平易な文体で日々の断想を気楽に綴っているが、内容的には三島が「生涯をかけて追いつづけた重要な諸問題」が列挙され、その意味では「充実した〈休暇〉」だと評しながら、その底流には、後年の『太陽と鉄』などに結晶してゆく三島独自の芸術観や人生観が一貫して流れていると解説している。鹿島茂は、『小説家の休暇』の中で語られているバルザックやプルーストなどの近代フランス作家の小説方法論についての考察とその作品の読み返しは、この時期に連載していた『幸福号出帆』の作品構成で模索され、その後の『鏡子の家』の方法論へと結びついていくと解説している。青海健は、三島にとって宿命的であり続けた問題が「人生対作品」であったとし(「人生と作品」という並列でなく)、三島が『小説家の休暇』の中で、〈純然たる芸術的問題も、純然たる人生的問題も、共に小説固有の問題ではないと、このごろの私には思はれる。小説固有の問題とは、芸術対人生、芸術家対生、の問題である〉と述べていることに着目している。そして三島がさらにその問題を、同時期に発表した評論『芸術にエロスは必要か』の中で、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の「トニオ(芸術家)」対「ハンスやインゲ(美しい無智者。欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという分裂した存在)」の二項の主題を借りて、芸術家の〈分裂の意識(統一的意識を持つことが二律背反であること)〉を解読しながら、〈統一的意識の獲得〉を夢み、〈統一的意識そのもの〉に成り変って、〈自己撞着の芸術観〉つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考の萌芽を三島が見せていたことを青海は指摘し、晩年の行動に至るまで、その命題を追究していく三島文学の過程を論考している(詳細は三島由紀夫#二元論を参照)。田中美代子は、「小説のためのエスキースであり、基礎工事でもあるような評論」に、三島が〈小説家の休暇〉と名付けているのは三島一流の「ダンディズムの発露」であり、この評論の中には「三島文学の全体を形成する基本的な諸要素のすべてが出そろっている」と解説している。彼の生涯を見渡して、これが昭和三十年、創作力のもっとも充実した黄金期ともいうべき三十歳当時に書かれているのは、注目に価いする。最期に向かっての彼の成熟は、いわばここに播かれたあまたの観念の種子がやがて殻を破り、次第に生育し、肥り、繁茂してゆく過程にことならなかったのだ。「大体において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによつて、全部成就してしまつた。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」こんな何気ない告白は、読者をはっとさせるに足る。 — 田中美代子「解説」(文庫版『小説家の休暇』)
伊達眼鏡の概要 語源は『立つ』で、これは『目立つ』や『男が立つ』と言う「引き立つ」と言う意味。昔から「眼鏡は男を三分(さんぶ)上げる」と言われ、男性が眼鏡を装着すると三割増しで男前になるとされる。サングラスは伊達眼鏡の代表的存在であり、しばしば装飾具として重宝される(詳細はサングラスの項を参照)。対して「眼鏡は女を三分下げる」と言われる一方で、眼鏡をかけている女性「眼鏡っ娘(めがねっこ)」も人気があり、眼鏡をチャームポイントとするタレントやアイドルも存在する。昭和3年の書籍にもすでに、ある劇場で女優を募集したところ、眼鏡をかけた写真を送ってよこした者が数名あって、しかもそのうち二・三人は視力は悪くないと自ら申告してきたという事例が紹介されている。心理学者の富田隆は、伊達眼鏡は仮面をかぶるのと同じであり、コンプレックスを隠すために行い、周期的に流行すると分析している。普段は度付きの眼鏡を使用している芸能人の場合に、レンズが光を反射してテレビ映りが悪くなるとして、コンタクトレンズを着用した上でレンズ無しの伊達眼鏡を使用する人物も存在する。眼科医により伊達眼鏡が処方されることもある。眼に異常がないのにも関わらず視力が低下する心因性視力障害では、背景に眼鏡に対する憧れがあることがある。眼鏡願望による心因性視力障害は、小学校3~4年生の女児に多く見られる。遠視のレンズと近視のレンズを重ね合わせて度のない状態を作り出すトリック検査で視力が出た場合には、伊達眼鏡を処方して患児の眼鏡願望を叶えてやることが治療に有効である
NOMADのマイクロドライブの問題点 マイクロドライブの発売当時、需要が限定的なため高価だった。対して本製品のマイクロドライブ搭載モデルは、マイクロドライブ単体よりも安価に入手できたため、筐体から取り外すために購入するという行為が問題視された。特にMuVo²の4GBモデルが発売された当時には、マイクロドライブを取り外した後の外装部分が大量にオークションに出回る事になった。これはマイクロドライブをデジタルカメラ等で使用するのが目的だったため、バッテリーケース内にある1つのネジの真上に「製品の開封防止ステッカー」という小さい円形のステッカーを貼る対策が施された。分解を行うためには、このステッカーを剥がしてドライバーでネジを回す必要があり、これを行うと一切のメーカーサポートが受けられなくなるという契約が込められた。しかし最初からオーディオとしての利用目的ではなく、デジタルカメラへの流用目的で購入した者は気にすることなく、このステッカーを剥がして分解して取り出していた。このことを菓子の廃棄が社会問題化した1970年代前半の仮面ライダースナックや1980年代後半から1990年代前半までのビックリマンチョコ、果ては2010年代のAKB商法になぞらえる向きもあった。後期ロットでは、デジタルカメラでは使用できないタイプのドライブが搭載されるようになった。
福島県旗の概要 現在の県章と県旗は、1968年(昭和43年)が明治百年に当たることを記念して県内で行われた各種事業の一環として一般公募を実施し、採用されたデザイン案を基に同年10月23日の県告示「福島県章及び福島県旗」(昭和43年福島県告示第1067号)で制定された。平仮名の「ふ」を円形に図案化し、県民の融和と団結・県勢の着実な前進を表している。県旗はあかみだいだい色を地色に、白抜きの県章をやや左上に配置している。
福島県旗の旧職員団章 現在の県章を制定する以前は、1956年(昭和31年)に公募を経て制定された県職員団章が県章に代えて使用される場合があった。「福」の旧字体を円形にデザインされた中央に、「県」の旧字体を配したものである。
福島県旗の旧県旗 初代の県旗は、福島県・宮城県・山形県が共同開催する1952年(昭和27年)の第7回国民体育大会(東北3県国体)に合わせ、開催前年の1951年(昭和26年)に公募を実施して同年8月4日に制定された。デザインの意味は、磐梯山のシルエットに抱かれる形で県名(旧字体)を朱書して躍進する県民の希望を象徴したものである。
福島県旗のイメージデザイン 1991年(平成3年)3月にキャッチフレーズ「うつくしま、ふくしま。」と共に制定され、県の公式サイトや道路に設置するカントリーサインでは県章に代えて多用されている。県の空・海・湖沼・河川の青、豊かな自然とまちの緑、明るく輝く太陽の赤、人々の笑い声や美しい心の黄色が一つになってコミュニケーションの輪を形成して花を咲かせるイメージでデザインされており、「未来」の花言葉が添えられている。
詫間港の概要 詫間港は香川県西部、三豊市詫間町に位置し、荘内半島、粟島等によって囲まれた詫間湾、三野津湾にまたがる港である。1670年(寛文10年)、丸亀藩京極家により塩田開発されたのが、歴史の始まりで以後、塩の積出港として栄えた。戦後に塩田業が衰退し始めると、1953年より港湾開発が行われ、塩田跡地や埋立地に鉄鋼や化学製品の工場が立地する臨海工業地域に転換された。1968年に外国船が初めて入港した後、1970年に香川県の地方港湾では初めて関税法による開港指定を受け、主に木材輸入を中心に西讃地区の国際貿易の中心となっている。1998年にコンテナターミナル開設。2006年、宮の下地区にボートパークが完成。
若鷹 (急設網艦)の概要 軍艦「若鷹」は太平洋戦争開戦直前に竣工した初鷹型敷設艦(急設網艦)。艦名は若い鷹による。大戦中は主に輸送船団の護衛に従事した。太平洋戦争を生き延びて戦後は復員輸送に従事し、そののち賠償艦として引き渡された。終戦時に帝国軍艦籍にあった艦中、解体あるいは海没処分されずに賠償艦となった唯一の艦である。
若鷹 (急設網艦)の艦型 「若鷹」はマル4計画艦の仮称艦名第102号艦。初鷹型3番艦だが、基本計画番号は初鷹型1番艦「初鷹」と初鷹型2番艦「蒼鷹」のH12に対して「若鷹」はH12b(H12B)と異なる。船体寸法は同一であるが船首楼甲板を延長するなど船体に若干の違いがある。前檣と後檣も、本艦はやや後方に傾斜している。また兵装に関しても差異がある。先行2隻(初鷹、蒼鷹)では対空・対潜双方に対応可能な兵装として連装毘式四十粍機銃を2基装備していたが、性能不足のため「若鷹」はこれを四十口径三年式八糎高角砲とした。防潜網は九六式二型防潜網24組(6カイリ分)を搭載可能。「一般計画要領書」によると先行の2隻と違って機雷の搭載を計画しておらず、掃海装備を搭載した。太平洋戦争中、漸次レーダー増設や対空兵装の強化をおこなった。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年(昭和19年)3月16日の時点で25mm連装機銃2基(艦橋前と艦尾付近に機銃台を設け1基ずつ)、13mm連装機銃2基(煙突直後に機銃台を設け左右1基ずつ)、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機を装備、探信儀には水流覆を取り付けた。また「終戦時の日本海軍艦艇」によると最終時には艦橋天蓋に22号電探が装備されていた。艦首損傷時の修理で艦首部が約4m(または5から6m)短くなり、商船タイプの揚錨機が装備された。
若鷹 (急設網艦)の艦歴 「若鷹」はマル4計画艦の仮称艦名第102号艦。初鷹型3番艦だが、基本計画番号は初鷹型1番艦「初鷹」と初鷹型2番艦「蒼鷹」のH12に対して「若鷹」はH12bと異なる。船体寸法は同一であるが船首楼甲板を延長するなど船体に若干の違いがある。前檣と後檣も、本艦はやや後方に傾斜している。また兵装に関しても差異がある。先行2隻(初鷹、蒼鷹)では対空・対潜双方に対応可能な兵装として連装毘式四十粍機銃を2基装備していたが、性能不足のため「若鷹」はこれを四十口径三年式八糎高角砲とした。防潜網6カイリ分、または九三式機雷100個を搭載可能。太平洋戦争中、漸次レーダー増設や対空兵装の強化をおこなった。1940年(昭和15年)11月25日、播磨造船所で起工。1941年(昭和16年)5月15日、日本海軍は播磨造船所の敷設艦を「若鷹」、舞鶴海軍工廠の秋月型駆逐艦を「秋月」と命名。同日附で2隻(若鷹、秋月)は艦艇類別等級表に類別された。7月12日、進水。8月14日、播磨造船所に若鷹艤装員事務所を設置する。11月30日、竣工。艤装員事務所を撤去。佐世保鎮守府籍。竣工と共に第二根拠地隊(第三艦隊)に所属。緒戦はフィリピン攻略戦や蘭印作戦にともなう各地の攻略作戦等に参加。1942年(昭和17年)3月10日、第二十二特別根拠地隊(第二南建艦隊)附属となり、バタビヤ方面で船団護衛に従事した。同年8月21日、第八艦隊麾下の第八根拠地隊に編入され、8月29日にラバウル(ニューブリテン島)に進出。9月26日、ショートランド泊地に進出。同方面で行動したのち、11月15日にラバウル帰投。続いてラバウルとパラオ間の船団護衛任務に従事した。同年12月29日、第二十五特別根拠地隊(第二南遣艦隊)に編入。その後はアンボン(アンボン島)方面で船団護衛任務に従事した。1943年(昭和18年)8月25日、ソロンで空襲を受けて損傷。8月27日から9月2日までアンボンで修理を行った。1943年11月23日、ハルマヘラ島の西で潜水艦に対して爆雷攻撃を実施しており、これによりアメリカ潜水艦「カペリン」を沈めたかもしれない。1944年(昭和19年)1月1日、第二十五特別根拠地隊は第四南遣艦隊所属となる。10月上旬、「若鷹」は損傷中の敷設艦「厳島」を曳航してビートンからスラバヤに向かうことになった。10月7日(10月17日とする出典もある)、スラバヤ(ジャワ島)に向け航行中の2隻(若鷹、厳島)は、オランダの潜水艦Zwaardvischの雷撃を受けた。Zwaardvischは5本の魚雷を発射し、1本が命中した「厳島」は沈没し、「若鷹」にも船首に魚雷1本が命中したが不発であった。「若鷹」のスラバヤでの修理は10月18日から1945年(昭和20年)3月8日までかかった。1945年(昭和20年)3月27日 ジャワ島北東でイギリス海軍潜水艦ステイジアンの雷撃を受ける。艦橋から先の船首を切断。乗員20人が死亡した。4月2日よりスラバヤで入渠。第102工作部の作業により、直線状の仮艦首を装備する。だが資材の不足のために修理は終戦までに完了しなかった。戦後は鹿児島で本格的な修理が実施された。1946年(昭和21年)3月より、マニラ、サイゴン、高尾、シンガポール、沖縄、パレンバン、バンコク、香港などとの復員輸送業務に従事する。1947年(昭和2年)1月にメンテナンスを実施した。同年10月17日に、シンガポールでイギリスに引き渡された。後にマラヤ連邦所属となり、ラブアン(HMMS Laburnum)と命名され宿泊艦として使用される。1965年シンガポール所属となり同国義勇海軍の練習艦として使用。1967年5月5日シンガプーラ(RSS Singapura)と改名し同国義勇海軍の旗艦となる。1968年除籍解体。
無洗米の概要 無洗米の一般家庭への普及は首都圏の生協より広まったとされる。業務用として多くの社員食堂や大手外食産業で積極的に扱われている。採用されている理由は洗う時間や使用水量を削減できるという経済的な理由と、洗米作業における経験の差等による炊飯時の食味の差が出づらい、などが主である。以前は、業界内では準無洗米と呼ばれていた。無洗米として販売されているにもかかわらず、実際には1~2回の洗米をしないと美味しく炊き上がらない商品が多く出回るなど、食味に関して問題があるとされ敬遠される事もあった。しかし、現在では水洗い乾燥法・湿式法、乾式法、BG製法、NTWP製法などの製法で加工された無洗米が主流となってきており、食味的な問題は払拭され、無洗米の生産量は上昇傾向にある。一方で無洗米という名称、および従来の(研ぐ必要のある)米への固定観念から、無洗米を研ぎ洗いせずに炊くことへの抵抗感も年長者を中心に存在する(名称節を参照のこと)。
無洗米の名称 「無洗米」という名称について、NHK総合テレビの『お元気ですか日本列島』および同ラジオ第1の『ラジオほっとタイム』内のコーナー『気になることば』2008年2月27日の放送にて「『既洗米』と呼んだ方がいいのではないか」との意見が紹介された。だが上で述べたように無洗米は研米されて作られるもので、製法により異なるが最も普及しているBG無洗米は水で洗ってあるわけではない。また同番組内では食品関係での接頭辞「無」の用法に着目し、「無着色=生産者が着色を行っていない」、「無農薬=生産者が農薬を使用していない」であることから、「無洗米」は 「生産者が米を洗っていない」といった意味になるのではないかと指摘している。しかし「無」と同様に否定を表す接頭辞「非」や「不」では「非洗米」「不洗米」と印象があまり良くないことなどから、「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている。さらに3月6日の同コーナーでは名称から来る無洗米への誤解の実例や、無洗米に代わる視聴者の考えた呼び方の案なども紹介された。また、中国語では「免洗米」と訳されることが一般的である。
無洗米の鮮度 国民生活センターによるテスト結果では、無洗米は精白米に比べ鮮度の低下が早いとされている。 一方、特定非営利活動法人全国無洗米協会は、酸化しやすいヌカを除いているため、逆に精白米に比べ酸化しにくく鮮度は落ちにくいと主張している。これは、国民生活センター側が無洗米も精白米の一部であるとして、日本精米工業会から出されているpH指示薬による測定を行ったものである。 これに対して、全国無洗米協会側は、表面に残るぬかが存在しないためpH指示薬が反応できず試薬本来の赤色のままであり一般精米を想定した従来の測定方法は有効ではないと指摘している。ケツト科学研究所が日本穀物検定協会と共同開発した「米の鮮度判定器」の技術資料の中では、無洗米化処理を施した米は、原料精米よりpH値が低くなる傾向がある事について、処理過程によるものであり品質の劣化によるものではないと記載されている。 ただし無洗米にも処理方法によって、変化度合いが事なる注意書きが記されており、2006年版の技術資料の中では、変更傾向などの参考値は調査中とされている。
無洗米の批判 生活廃水からのBOD負荷量は1日1人あたり45グラムであり、割合としては台所からが最も多い。その中で、とぎ汁が最大の汚染原因と協会は主張しているが、とぎ汁が飛びぬけて環境汚染の原因とするのは誤りであるとする主張もある。
無洗米の歴史 20世紀初頭頃には、精米の無洗化処理を目的とした研米機が開発されていた。なめし皮やポリウレタンによる研磨方式、静電気を利用した静電分離方式のほか、精米機に噴風装置を組み込んだものもあった。一部は大日本帝国陸軍で「不洗米」として試用されたが、普及には至らなかった。無洗米は1955年ごろまでは淘(と)がない米という意味で「不淘洗米」と呼ばれることもあった。栄養学の創設者である佐伯矩が、栄養の損失を理由に「淘洗は精白にも優る米食人の禍根である」と、淘洗(とぎ洗い)を問題視している。1977年、サタケが無洗米時代の先駆けとして「クリーンライト加湿精米装置」を開発したが、普及しなかった。1991年頃に、新たな無洗米製造機が開発され、また同時期に東洋精米機製作所が「BG精米製法」を開発し、BG無洗米が登場し普及に弾みが付いた。
無洗米の特許 サタケと東洋精米機製作所の間で、無洗米製造機(水洗い方式)に関して特許係争があったが、2004年にサタケが勝訴し、東洋精米機製作所が保有していた「洗い米特許」は無効となった。
無洗米のNPO法人 「無洗米の信頼を得るため」というふれこみで、2000年10月22日に、BG無洗米を製造している米穀業者らが中心となって特定非営利活動法人全国無洗米協会を設立した。BG無洗米としての統一規格を作り、キャラクターである「エコメちゃん」の認証マークを交付している。
冨士山アネットの概要 作・演出・振付の長谷川寧を中心としたカンパニー。2003年設立。近年は、演劇の方法論を用い、身体を起こして行くという「ダンス的演劇(テアタータンツ)」にて独自の活動を行っている。
冨士山アネットの作品 かなりの部分がダンス的な身体の動きで構成され、ほぼ無言の舞台だが、すべての作品に演劇の台本が存在する。作品制作にあたっては、まず、台詞のある芝居にし、そこから徐々に、台詞を動きに転換していくという独自の手法をとっている。
冨士山アネットの宣伝美術 近年では、一部の公演を除き、ビニール製手提げ袋に次回公演情報を印刷したものを採用している。劇場で配られる大量のフライヤーを入れて持ち帰ることが出来る上、他公演帰りの観客が持ち歩くことで、本人も知らぬ内に冨士山アネットの次回公演の宣伝につながっているというメリットがある。
紀三井寺公園の概要 昭和39年(1964年)4月に陸上競技場・屋外庭球場・球技場・補助競技場が、翌昭和40年(1965年)には野球場が完成した。平成11年(1999年)2月には、登はん競技場も新設されている。昭和46年(1971年)、第26回国民体育大会(黒潮国体)が開催された。面積は紀三井寺緑道を含んで17.23hr。