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船舶工学の復原力曲線 設計した船体が復原する力は復原力曲線によって表される。復原力曲線は船体の復原てこ(GZ)が縦軸に傾斜角度が横軸になり、それぞれの傾斜ごとでの復原てこがいくらになるかが示され、船体の戻りやすさと転覆の危険度が読み取れるようになっている。復原力曲線のグラフ上の面積が排水量当りの動復原力を示し、船を転覆させるには復原てこ(GZ)が正の値をとる面積分のエネルギー(動復原力)が波浪などから船体に加えられる必要がある。 |
船舶工学の復原性に対する自由水影響 浸水時などで船内に流動性のある水があると船体の傾きによって低いほうへとその水が流れるためにさらに復原性を失わせるため転覆する可能性が増すことになる。こういった現象を復原性に対する「自由水影響」と呼ぶ。タンカーでのスロッシング (Sloshing) もローリングを増幅することがあり危険であるため、油槽内はいくつかに仕切られている。 |
船舶工学の荷崩れによる危険性 貨物船などでは、搭載物が船の揺れや傾きによって片舷に寄ると、設計時の意図しない形で重心が偏るため、搭載物の固定は復原性を確保するのに重要である。特に穀物や粉体等の擬似的に流動性を持つ貨物は、船艙内であまり自由な運動を許すと船が波浪などで傾いた時に突然流動性を帯びて荷崩れを起こし復原性に対する「自由水影響」と同様の効果によって船の安定を著しく損なう場合がある。専用運搬船では設計段階から船艙上部の隅をあらかじめ三角形の壁面で構成して荷崩れでの影響をあまり受けないようにしているが、それも8-10割程度の積載時の場合にしか効果はなく、全船艙に半分ずつ均等に積載するようなことはなるべく避けて、満載と空虚を交互に配置するような方法をとるのが普通である。これにより安全と共に、積み卸しとその後の清掃の手間がいくぶん省けるが、船体に剪断力が加わることになる。 |
船舶工学の腐蝕対策 アルミは鋼鉄に比べて腐蝕を起こしにくいため、水に浸かり続ける船体には適した金属であるが、長い時間の経過と共に少しずつ腐蝕は進行するため、やはり塗装は必要となる。 |
船舶工学の異種金属腐蝕 鋼鉄の船体では塗装は必須であるが、特に異種金属腐蝕も問題となる。電解質溶液中にイオン化傾向の異なる金属をつなげて浸しておくと、一方の低電位の金属が激しく腐蝕を受ける現象である。この現象はボルタ電池として利用されることもあるが、船ではほとんどのプロペラに銅合金が使われているため、陽極(+極)となる船尾の鋼鉄を激しく腐蝕する。このため、犠牲となって溶ける亜鉛などの「アノード」(Anode)と呼ばれる金属片をプロペラの周囲に貼り付けて、船体の腐蝕を防ぐ。この方法を「犠牲防蝕」と呼ぶ。 |
船舶工学の航海計器 航海に使用する測定器や計器類、航法装置は航海計器と呼ばれる。 |
船舶工学のジャイロスコープおよびジャイロコンパス 一度設定した方位を保持し続けて針路の決定に利用する装置であるジャイロスコープと、地球の自転とジャイロ効果の作用により方位を自己修正するジャイロコンパスがある。物理的なコマの回転を利用するジャイロコンパスから、精度が高くコンパクトなレーザーリング型やレーザーミラー型のジャイロスコープへとかわって来ている。しかし、ジャイロスコープには方位を自己修正する能力がなく、また、いずれも停電時に使用できなくなるため、磁気コンパスとの併用が規則によって定められている。機能上、自動操舵装置とのつながりが深いので、自動操舵装置に含まれているものも多い。ジャイロスコープのみで方位を示す場合、いくら精度が高くても、時間と共に誤差が蓄積してくるため、時々は修正が必要になる。 |
船舶工学の流圧式ログ・電磁式ログ ともに水に対する速度を測る装置である。流圧式ログはピトー管による圧力によって、電磁式ログでは水の電磁誘導によって速度を測る。GPSの利用が進んだ21世紀初頭現在では、大型船を中心に海流の影響を受け測定誤差も大きなこれらの測定器に代わって、GPS装置が描く自らの航跡に基づいた速度の利用が多くなっている。 |
船舶工学のドップラーソナー 航海計器としてのドップラーソナーは、船底から前後に向けて発射した水中超音波の反射波を測定し周波数のずれから、水底までが近ければ対地速度を、遠ければ対水速度を測る装置である。側方に発射・測定すれば港での岸壁までの距離が測れる。 |
船舶工学の音響測定器 航海計器としての音響測定器は、船底から下に向けて発射した水中超音波の反射波を測定し、船底から水底(海底など)までの距離を測るものである。 |
船舶工学の自動操舵装置 自動操舵装置(オートパイロット)はジャイロコンパスや航法支援装置からの情報によって設定した方位から針路がずれると、自動的に舵を操作することで針路を保持する。風や潮流によって横に流されるズレには対応できず、他船舶との回避運動も行なえないので、人間が常に船橋(ブリッジ)から見張り(Look out)をして適切に操船する必要がある。 |
船舶工学の航海灯 白赤緑の3色の「航海灯」が夜間航海時の船舶の互いの視認に役立てられている。これら3種類5個の航海灯の配置は万国共通で決められており、レーダーに頼らなくても、夜間に船体が見えなくても船の方向や大きさがほぼ判るようになっている。後進した場合については法的に決められていないが、左右の赤と緑を逆にできるように左右とも赤緑両方が付いている場合と後部マストに左右逆に航海灯が付いている場合があり。後進している状態でも進路を誤認させないように工夫されていることが多い。 |
船舶工学の消火設備 「海上における人命安全会議」(SOLAS : Safety of lofe at sea)で1914年にSOLAS条約が13ヶ国で調印され海運の国際秩序と海上における人命及び財産の安全確保のために「IMCO」(政府間海事協議機関)が1958年に発足した。これらの機関によってその後、さまざまな案設備に関する決まりが定められた。船舶では防熱上や構造上の境界によって40mを越えない仕切られた区域に区分されている。特に居住部分は他の部分から隔離されている。船内は可燃性材料の使用を控え、火災探知、警報、消火、脱出の各装置が備えられている。持ち運べる消火器も多数が用意されている。消火設備は、消火専用のポンプの他に、普段はバラスト・ポンプ、雑用水ポンプ、衛生ポンプとして使用しているものを火災発生時に消火用に使用することが認められている。多くのポンプが機関室にあるため、機関室からの火災の場合を考えて機関室外の独立して働くポンプも備えられていて、通常は船尾舵機室にある。船内のどこから出火しても2条以上の放水が可能なように消火水配管と消火栓、消火ホースが配置されている。消火ホースは船長30mに付き主と予備の合わせて2組を備え、最低5組が用意される。固定式の消火装置として、ガスによるもの、発泡水によるもの、霧状放水によるもの、スプリンクラーによるものがある。これらが火災探知機とともに、特性・効果を考慮して配置されている。タンカーにはイナート・ガス発生装置が備わり、油槽からの火災を未然に防いでいる。火災探知機は光の遮断を探知するものや、空気中のイオンを探知するもの、空気の膨張を探知するものなどがある。 |
船舶工学の救命胴衣 およそ船舶と名の付くものすべてに、乗船する乗員乗客の総数以上分の「救命胴衣」(ライフジャケット)の搭載が義務付けられている。固体式(浮力材:発泡スチロール)、気体封入式(浮力:常圧のガス)、膨張式(使用時にボンベからのガスで膨張する)、固体膨張ハイブリッド式、等の救命胴衣がある。救命浮輪(きゅうめいうきわ、Life Buoy)も露天デッキの各所に備えられている。 |
船舶工学の救命ボート ある程度の距離を航海する船舶は、船体が沈没や火災などの危険な状態から乗員乗客が安全に避難できるよう、必要なだけの「救命ボート」の搭載が義務付けられている。外洋客船では国際規則によって、片舷の救命ボートだけでも乗員乗客の避難に必要なだけの数を備えるように決められている。救命ボートにはボート型の他にプラスチック・カプセルに収められた膨張式の「救命いかだ」(Life raft)もある。救命いかだのカプセルはたとえ沈没する船に放置されたままでも4m以上の水深水圧が加われば自動的に離れて水中から浮かび上がり展張するようになっている。救命ボート内には1人当り3リッター分の飲料水をはじめ、食料や発煙信号器、懐中電灯などいくつかの救命用備品が備えられている。大型のクルーズ船では100人程度が乗船できるテンダーボートと兼用の小型船を搭載していることが多く、大型船が接近できない場所を観光する際にも使用される。 |
船舶工学のGMDSS GMDSS(Global Maritime Distress and Safety System)は海上安全の為の包括的な遭難通信システムの全体構想の名称であり、1999年2月から完全実施が開始された。実際に船に搭載されるのは次に示す E-PIRB、DSC通信装置、インマルサット通信装置、SART という個別の通信装置である |
船舶工学のE-PIRB 大型船の露天デッキに備わっている「E-PIRB」(非常用位置指示無線標識装置、Emergency Position Indicate Radio Beacon、イーパブ)は沈没する船に放置されたままでも4m以上の水深水圧が加われば自動的に離れて浮かび上がり、船名や位置情報を含む救難信号を発信するようになっている。1999年2月1日からは「SOS」で有名だった海上緊急通信としてのモールス信号は公式には廃止され、電子装置が発するデジタル信号を基本とするGMDSSに置き換わっている。E-PIRBもGMDSSを使用している。 |
船舶工学のDSC通信装置 DSC(デジタル選択呼出:Digital selective calling)通信装置は無線機に付加して特定の無線局との通信チャンネルを自動的に設定する機能である。ボタン一つで遭難信号を送信する機能も備える。 |
船舶工学のSART SART(Search and rescue radar transponder)は沈没などの事故時において、捜索航空機のレーダー電波に対して自動的に遭難信号を応答発信する装置であり、沈没前に海上に浮かべておけば救難捜索活動の短縮化に役立つ。 |
船舶工学の国際VHF 国際VHF(marine VHF band)は入出港時や遭難時などに使用される。総トン数が100トン以上の日本船舶には、DSC付き国際VHFの設置が義務付けられており、その他の日本船舶の設置は任意である。これらを使うには総合無線通信士、海上無線通信士またはレーダー級以外の海上特殊無線技士の資格が必要である。ただし、第三級海上特殊無線技士は5Wをこえるもの及びDSCは操作できない。(無線従事者参照)総務省は、2008年のイージス艦衝突事故を契機に、国際VHFを船舶共通通信システムと位置づけ、設置義務の無い100トン未満の船舶に対し普及促進するため2009年10月に省令・告示を改正した。 |
船舶工学のアンカー アンカー(錨)は比較的浅い沿岸海域などで停泊する場合に、海底に投錨することで船体の移動を抑制する機能を果たす。特に台風などで強風や波浪の高まりが予想される場合には、大型船は港内での高潮によって岸壁に乗り上げたり係留索の断裂等による事故を避ける為、港から開けた沿岸海域に事前移動後、投錨して危険を避ける事が普通である。21世紀はじめの近年では、使用しないときには余分な重量となるアンカーは軽量ものを1つだけ搭載する船もあり、いざとなればエンジンをかけて風に対抗することでアンカーの軽量化分を十分補えるとしている。 |
船舶工学の運動 船舶の運動は地上での自動車での走行とは異なり、いくつか特異な挙動を示す。以下に単胴船での特異な運動例を示す。 |
船舶工学の旋回 船舶では右旋回を面舵(おもかじ)と呼び、左旋回を取舵(とりかじ)と呼ぶ。例えば、面舵(右旋回)の開始直後の短時間だけいちど船は反対方向の左へ向かう。これは「キック」と呼ばれ、舵によって操向される船独特の挙動である。以下の説明では右旋回での例を示すが、左旋回でも左右が逆になるだけで同じである。標準的な船舶の舵は、スクリュー直後の位置に取り付けられていて、面舵(右旋回)の時は舵面は右側に突き出される。スクリューによって生み出された水流が舵面の揚力によって右に偏向されるため、船体後部は左方向へ押される。船体後部の左方向への力は船の向きを右へと回転させるように働くが、回転する効果が現れる前に船体後部で生じた左方向への押す力が先に船体を左へと押し流す。これがキックである。キックは喫水の浅い船で強く現れる。船舶が旋回する時に、舵によって生み出される回転力は実は実際の旋回に発揮される力の一部でしかなく、船体が旋回を始めて船に対する水流方向が斜めになるために生じる船体を押す力も回転力として効果を発揮している。また旋回時にはまずキックが起きるのと同じ理由で、水面下で舵が左方向へ船体を押すために船は短時間だけ右側へ、つまり回転内向きに傾き(内方傾斜、ないほうけいしゃ)、少し遅れて船が右方向へと曲がりだすと遠心力で船体が左に、つまり回転外向きに傾く(外方傾斜、がいほうけいしゃ)。特に外方傾斜は大きく傾くため、強い旋回を行なえば、客船では快適性が損なわれ貨物船では荷崩れのリスクが高まる。このように、舵によって船体が左右に傾くことを利用して、船の揺れを抑える減揺装置に利用しようという研究が進められている。 |
船舶工学の停止 通常の船舶ではブレーキは存在しないため、航走状態から停止するにはエンジンを逆回転するなり、ギヤを逆回転位置にするなり、可変ピッチプロペラ・スクリューを逆ピッチにするなりしてスクリューが生み出す水流を後進方向に変えることでブレーキの働きを行なわせている。危険回避などでこのような全速後進を行うことを「クラッシュ・アスターン」と呼ぶ。大きな船ではクラッシュ・アスターンでも船の長さの十数倍の距離を進んでしまう。スクリューが通常とは逆方向の水流を作る時には、舵はほとんど役目を果たさなくなる。停止のための逆進を行なわずにいれば、大型船ではエンジンを切っても3km程は惰性で進む。 |
船舶工学の保針性能 船では旋回性能だけでなく直進する性能も重要である。まっすぐ進む性能を「針路安定性能」や「保針性能」と呼ぶ。船は常に波にさらされながら航海する場合がほとんどであり、波は船の針路を少しずつ曲げてゆく。保針性能が低いと波の影響によって常に針路を修正しなければ正しい航路を維持できず、常に舵によって修正を続けることは操舵装置への負担と共に、抵抗も増えて燃費が悪くなる。保針性能を測るには船をジグザグに走らせるジグザグ試験(Z試験)によってその反応から判定する。 |
船舶工学のサイドスラスター 大型船が港に入港する時には小回りが効かないためにタグボートで押したり曳いたりしてもらって接岸することがある。多くの大型船、特に大型客船では「サイドスラスター」と呼ばれる横方向に小さな推進力を備えた船が多い。サイドスラスターは水面下で船体を左右に貫くトンネルとその中で回転する電動スクリューにより構成される。船首側にあるものは「バウスラスター」、船尾側にあるものは「スターンスラスター」と呼ばれる。複数のサイドスラスターを持つ船も珍しくなく、大型客船では船首に3つ、船尾に3つ備える船も現れている。航行中に舵の代りに使おうとしても、前後方向の水流にじゃまされてスラスターの横推力が発揮できなくなり、5ノット程度を境に使用されない。推進器の方向が変えられるアジポッドなどを備える船は、それによって自由な操船が行なえるために、普通はサイドスラスターを持たない。 |
船舶工学のエンジン 大まかに言えばディーゼル・エンジンの出力はシリンダー内の体積に比例するが、低速で航海する船体が受ける抵抗は水と接する表面積に比例する。このため、3乗の出力効率と2乗の抵抗成分によって船の大型化が輸送効率という意味での燃費効率の向上につながる。船舶用のディーゼル・エンジンは長ストローク化や低回転化、排気タービン過給器やインタークーラーの装備によって大きく燃費が向上した。また、ディーゼル・エンジンで電子制御システムを採用して、燃料噴射と排気弁の制御タイミングを最適化することで、燃費を向上しながらNOx排出量を抑制している。 |
船舶工学のプロペラ プロペラは出来るだけ大きなものを1つだけ水中でゆっくりと回すのが効率が良くなる。多軸推進は経済性の面では不利となる。2重反転プロペラは回転エネルギーが効率よく推進力に変換できるので燃費向上には有利となる。 |
船舶工学の高速化 排水量型船体の高速化は造波抵抗と粘性圧力抵抗の急速な増大化を招き、摩擦抵抗も比例して増大するが、ウェーブ・ピアーサーのような船型によって大きな抵抗の増大が避けられ、高速を生かして1隻で2隻分の働きを行なえるなら人件費や燃料費、船体購入費やメンテナンス費などの総合的なコストを勘案すれば必ずしも割高とは限らないといえる。ただ、東京⇔小笠原航路に就役予定で東京都が三井造船に求めた高速船「スーパーライナーオガサワラ」号の事例では、14,500総トンの船体で最高速度39knを実現したものの、定員740人で運べる貨物はたった210トンであり、しかも往復で700トン以上の燃料を消費することから、計画は白紙に戻されて完成した船体の使い道がなくなってしまう事態となった。このように、高速船を長距離航路で運用することはコスト的に引き合わない可能性が高い。 |
船舶工学の造船工程 造船は海や湖、河に面した造船所によって行なわれる。 |
The 101'ersの歴史 バンド名はメンバーが一緒に住んでいたスクワットの住所、「メイダヴェール、ウォルタートン通り101番地」に因んで名付けられた。また、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する拷問部屋「101号室」に因んだ名前だとも噂された。この小説は後にパンク・ロックムーヴメントの政治的要素に関する声明ともなった。ワンオーワナーズは1976年4月3日にナッシュヴィル・ルームズでセックス・ピストルズを従えたライヴを行った。そしてこの時、ストラマーはパンク・ロックに目覚めたと語る。ストラマーは『ウェスト・ウェイ・トゥー・ザ・ワールド』でドン・レッツにこう語っている。「ピストルズの最初の曲を5秒聞いただけで、俺たちは古い新聞で、もう過去の物なんだとわかった。」バンドのデビュー・シングルがリリースされた時にはすでにストラマーはザ・クラッシュのメンバーになっており、バンドはそれきりとなった。クライヴ・ティンパレイはザ・パッションズに参加、ダン・ケルハーはザ・デレリクツ、リチャード・デュダンスキはザ・レインコーツを経てパブリック・イメージ・リミテッドへ。タイモン・ドッグは短い期間ザ・クラッシュでストラマーを手伝い(『サンディニスタ!』で数曲プレイしている)、後にザ・メスカレロスに参加している。当初はシングルを1枚残したのみであったが、クラッシュへの関心の高さから1981年にセカンドシングルとコンピレーション・アルバム『エルギン・アヴェニュー・ブレークダウン』がリリースされた。アルバムの数曲はライヴ録音で、バンドがこれをフルアルバム用に考えていた形跡は無い。ストラマーは2002年の死の前に、『エルギン・アヴェニュー・ブレークダウン』を未収録曲を含めた形で再リリースする計画を建てていた。この計画は彼の未亡人ルシンダ・テートと当時のドラマー、リチャード・デュダンスキの手により2005年に『エルギン・アヴェニュー・ブレークダウン・リヴィジテッド』としてリリースされた。 |
カボション・カットの生い立ち 南フランスのナルボンヌ生まれ。父リュシアンは公証人で、ヴァイオリンを弾いた。母がハープ、兄がハープシコード、叔母がピアノをたしなみ、土曜になると自宅の居間で演奏会を催し、近所の人たちから音楽一家と呼ばれたという。第一次世界大戦で父が召集を受ける。トレネはベジエの学校の寄宿生となるが、父が1919年に帰ってきたころには、母親が別の男と親しくなっており、両親は離婚。2年後、トレネは父、兄とともにペルピニャンに移った。この地に、父の友人で詩人のアルベール・ボージルがいたことで、トレネは大きな影響を受けた。トレネは13歳で詩を投稿し、15歳で初めての詩集を発表している。1928年、再婚した母親の招きでベルリンに向かい、10ヶ月間滞在する。このころトレネは祖父や叔父同様に建築家になることをめざしており、ベルリンで製図を勉強した。しかし、ジャズに魅了されるようになり、母親の再婚相手であるベンノ・ヴィニが所持していた蓄音機でジョージ・ガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を繰り返し聴き込んだ。ペルピニャンに戻り、ボージルのもとで詩作に励むうちに、建築家志望の気持ちは失われた。 |
ラッカセイの名称 1981年にトレネは新譜を発表したが、ステージに立つことはなかった。1983年、カナダのジルベール・ロゾンは「さよなら公演」の名目でトレネを招いた。ロゾンはトレネの現役復帰に情熱を傾け、トレネを説得して彼のマネージャーに就く。トレネが本格的に復帰したのは1987年、シャンゼリゼ劇場の公演で、74歳のときである。1988年、トレネのソロ活動50年を記念して、12月17日から31日にかけ、シャトレ座で11回のリサイタルを催す。翌1989年には、ニューヨーク、ロンドン、モントリオール、東京各地で公演する。パリに戻ると、10月17日から1ヵ月間にわたってパレ・デ・コングレでのリサイタルに出演した。1992年には8年ぶりのニュー・アルバムを発表した。このころトレネは自らを25歳と称し、「アーティストがステージを降りるのは、観客に見放されたときである」と語った。1999年11月、サル・プレイエルでの公演がトレネ最後のコンサートとなった。その後、トレネは脳梗塞の発作を起こして倒れ、いったんは回復したものの、歩行障害が残った。トレネは、コンサート数日前に次のように語ったという。「私のショーに来ていただいたみなさんは、私の葬儀に欠席してもよろしいですよ」。2000年10月25日にシャルル・アズナブールのコンサート・プレミアに出席したのが、トレネが公の場に姿を見せた最後となり、2001年2月19日、脳卒中のため87歳で没した。 |
変身戦士阿龍の概要 ラッカセイはこんにゃく芋と同様に関税割当制度の対象であり、2007年は1次税率が10%、2次税率が617円/kgと保護関税が課せられている。 |
島田三蔵のあらすじ 物語の舞台は1930年代または1940年代の小さな村。阿龍の父親は異星人、母親は地球人。阿龍は子供のころからほかの人とは別の感覚をもち、感じの良い養母に育てられ成長した。そして、12歳の誕生日に彼は孫亮から神秘的な贈り物、金剛圏を受け取った。孫亮に金剛圏の由来と自分の生い立ちと変身戦士に選ばれたことを告げられると、阿龍は宇宙の邪悪な侵略者冥王から生みの母を救出し、地球の平和を守るという使命を引き受けることを決意した。一方、冥王は地球のコアの材料で作られた金剛圏が地球に落ちたことを知ると、地球にモンスターを送って、金剛圏を手に入れようと試み、宇宙を支配しようともくろむ。モンスターとの戦闘中に阿龍の潜在能力が刺激されると、金剛圏が輝いて光を放ち、阿龍は変身戦士に変身して邪悪な生物と戦闘を開始する。阿龍は勇敢に氷の星の生物からの挑戦に立ち向かい、困難な戦いの末、最後には母親を救出し、敵を撲滅して、地球の安全を守り、本当に宇宙の戦士へと成長する。 |
セレス・ネグロスFCの歴史 島田 三蔵(しまだ さんぞう、1938年9月20日 - 2007年9月19日)は、日本の翻訳家(朝日新聞人物データベースには「作家・翻訳家」として登録されている)。本名は前島勝義(まえじま・かつよし)。東京の向島(現墨田区向島)生まれ。1957年東京教育大学文学部日本史学科に入学。在学中に父親が死去したため留年し、大濱書店で働く。1963年卒業。卒業後、偕成社に入社し編集者となる。1968年に退社し学習研究社に入社。1972年に退社。島田三蔵の筆名で翻訳を始める(退社は社の方針に合わなかった為)。 |
ラ・フォーレ号の概要 青森と東京を結ぶ直通路線として弘南バスと京浜急行電鉄(京浜急行バスの前身。のち羽田京急バスに移管)が青森駅前 - 品川バスターミナル間を、JRバス東北とJRバス関東は青森駅前 - 東京駅八重洲南口間の運行をそれぞれ計画していたが、競合路線の併願を認めない方針を打ち出していた当時の運輸省(現・国土交通省)より需給調整が指導された。協議の結果、4社による青森駅前 - 東京駅八重洲南口間の共同運行となった。2009年7月31日出発便の運行をもってJRバス関東が撤退。同年9月1日運行分からは、3社による共同運行を終了し、JRバス東北と弘南バス・羽田京急バスの2グループが同じ「ラ・フォーレ号」の愛称でありながら別路線として運行しており、乗車券販売方法が異なっていたほか、異なる会社グループをまたいでの往復割引の適用ができなくなった。さらに2010年2月28日出発便の運行をもって羽田京急バスが撤退。翌3月1日出発便より、弘南バスは「津輕号」に愛称を変更。「ラ・フォーレ号」よりも割安な特別運賃・キャンペーン運賃を設定して差別化を図ったが、「ラ・フォーレ号」も同年4月1日出発便より運賃を「津輕号」と同額に引き下げた。2010年9月23日出発便より、「津輕号」は東北新幹線全線開業前に割安感をアピールする狙いとして、同路線の片道運賃の値下げを実施した。東北新幹線の全線開業後、JRバス東北が運行する「ラ・フォーレ号」は利用客数が全線開業前より20~25%減少したといい、外国人と観光客の利用が新幹線により減ったことが大きな打撃としている。 |
ホットパンツ (テレビ番組)の番組概要 最初期は、チューヤンと峰竜太の2人が番組全編にわたり、素人女性たちの痴話(トーク)を覗き聞きする(それ専用の穴がある、という設定)との内容でスタートしたが、あまりに下品で苦情が多かったためか、数回でその内容はサブコーナーに回り、毎週週替わりで芸人が都内の身近なデートコース(回によっては普通の公園など)を紹介するとのチープな内容にリニューアルされた。リニューアルの際、峰は降板し、トーク部分を覗き見するのは、レギュラーとなった光浦靖子および、ゲストの芸人、そして「毎回、終盤になるとたまたま遭遇する」との状況で現れる三村マサカズが交代で務めた。また、この三村の登場場面を筆頭に、非常にチープで脱力的な演出が多用された番組となった。 |
ホットパンツ (テレビ番組)の放送時間 火曜日24:12 - 24:45(JST、最終回はオリンピック中継のため、3分縮小。) |
西念寺 (笠間市)の親鸞による東国布教 建永2年2月28日(1207年3月28日)、法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流される。建暦元年(1211年)11月に赦免の宣旨が下る。赦免後も2年半ほど越後に留まる。建保2年(1214年)に常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて「吹雪谷」と呼ばれたこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と呼ばれる。62、3歳頃に、帰京する。東国における布教は、約20年間に渡る。門弟たちの住所が、この草庵を中心とした30kmの同心円内にほぼ収まるため、稲田の地を拠点とし布教したと考えられる。親鸞にまつわる伝承が残される地域の範囲からも、常陸・下総・下野の三ヶ国を中心に、広く関東から東北まで布教を行ったと考えられる。 |
西念寺 (笠間市)の「稲田の草庵」の寺格化 西念寺初世・頼重房敎養(稲田九郎頼重)が、草庵を念仏道場として受け伝える。第四世・宗慶が嘉元2年(1304年)に、後二条天皇の御宇朝廷に奉達し寺院となる。宇都宮泰綱の遺命により西念寺と寺号を定める。 |
コスタンツォ・ポルタの生涯 若い頃についてはほとんど知られていないが、恐らくクレモナの聖ルカ修道会(Convent Porta San Luca)で教育を受けたと考えられている。1550年ころには、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長(maestro di cappella)であったアドリアン・ヴィラールトのもとで学んでいた可能性が高い。この時期に、同じくサン・マルコで学んでいたクラウディオ・メールロと出会っている。彼らは生涯を通じて親交を保った。1552年、ポルタはオージモの聖堂の楽長に就任する。1565年には、短い間パドヴァで職に就いていたが、翌年により魅力的なラヴェンナでのポストに転職している。ラヴェンナでは聖堂のために全く新しい音楽隊を組織するために雇われていた。1580年ころまでには、ポルタの名声はきわめて高まり、彼を獲得するための競争が行われるほどであった。彼はミラノからの誘いを断り、いくつかの都市の職を転々と巡っていた。また彼はこのころには有名な教師としても人気を得ており、次世代の多くの作曲家が彼から対位法の技術を学んでいる。晩年はパドヴァで過ごしたが、辛いものであったことは確かなようだ。パドヴァでの音楽水準は衰退しつつあり、さらに健康の悪化や、彼の後釜を狙う人物からの嫉妬にも苦しめられていた。 |
コスタンツォ・ポルタの作品 ポルタの作品の多くは宗教音楽で、特にモテットが多い。少なくとも8冊のモテット集を出版しており(うち1冊は散逸)、その他にもミサ曲、入祭唱や、膨大な量の晩課のための賛美歌を出版している。ポルタの作品は、ニコラ・ゴンベールの作品よりもさらにポリフォニックであり、形式的な厳格さを好み、きっちりと対位法を守った作曲を好んだが、しかしきわめて高い技術を以て作曲されているために、それでも彼の作品は歌詞をはっきりと聞き取ることができる。彼はしばしば厳格なカノンを用いている。1580年に出版された52のモテット集のうちの1曲の7声のモテットでは、7声のうちの4声までもがカノンのみによって生成されている。また、同じモテット集の別のモテットは、対位法の中で最も書くのが難しいとされる定量カノン(プロラツィオ・カノン)になっている。トリエント公会議にて歌詞が聞き取れないほどの過剰なポリフォニーの実践が禁止されると、多くの作曲家は反発をしたが、ポルタは同僚たちに同調する必要性を感じなかったようである。恐らく、彼自身には、歌詞をはっきりと聞き取ることができるような作曲ができるという自信があったのであろう。ポルタの作品はジョヴァンニ・ダ・パレストリーナに匹敵するほど緻密に構成されており、不協和音と半音階の使用に慎重である一方で、同時代の他の宗教音楽作曲家には真似できないほどの域に達した高度なポリフォニーの技法をふんだんにもちいたものなのである。後期のモテットのいくつかは、複合唱を用いている。この様式が花開いた16世紀末のヴェネツィアにポルタはいなかったが、かつてこの地でヴィーラルトについて学んだ影響は、生涯にわたって消えることはなかった。またヴェネツィアの最新の流行についてもよく知っていたのであろう。新しい技法も効果的に用いている。ポルタはマドリガーレも作曲している。多くのものは、雇い主の親族の結婚式などといった特別な機会のために作曲されたものである。世俗曲は宗教作品よりもずっと単純な様式で書かれており、当世風をよく取り入れている。 |
リスター (自動車)のリスター・ブリストル 1954年、レーシングドライバーであり、ケンブリッジの鉄工所の経営者であるブライアン・リスターがオリジナル設計の車両を開発したことからリスターの歴史が始まった。クーパーに触発され、ラダータイプのスペースフレームシャシーを持ち、ド・ディオンアクスル、インボードドラムブレーキという構成の軽量な車両であった。この頃の他のビルダーと同様に、改造したMG製エンジンとトランスミッションを使用した。ドライバーには「隻腕の名手」アーチー・スコット=ブラウンを据え、オウルトン・パークでのデビューレースに臨んだが、パワー不足が目立った為にすぐにブリストル製2リッターエンジンに交換。更にいくつかの改良を施して、シルバーストーンでの英国グランプリのサポートレースに出走した。リスター・ブリストルは2リッタークラスではあっさり優勝、総合でも5位入賞を果たした。ジャガー・Cタイプに負けることはなく、上位にはアストンマーティンのワークスカーしかいないという快挙であった。この年、数々のレースに出走し、マセラティ、クーパー、ロータスやブリストルなどのライバルに対して勝利を重ねる。 |
リスター (自動車)のリスター・メーザー 1955年、ブリストル出身のエンジニアを雇い、空洞を用いてデザインしたボディを架装した車両が何台も製造された。しかし、ライバル達も進化しており、前年と比べ苦しい戦いとなった為、マセラティ製の直列6気筒エンジンを積み、更なるパワーアップを果たした。リスター・メーザーは、前年同様のポテンシャルを取り戻し、レースを席巻した。この頃同時に開発していたF2クラスの車両は出来が悪く、すぐに撤退。 |
リスター (自動車)のリスター・ジャガー 1957年、ジャガー製の6気筒エンジンを搭載した新しいアルミニウムボディを製作。ついにこれでアストンマーティンと競える力をつけることになる。リスター・ジャガーの速さは証明され、エンパイア・トロフィを勝利した。 |
リスター (自動車)のリスター・シボレー 1958年、更なるモデルチェンジが施され、ブレーキが改良された。しかし、アストンマーティンとフェラーリには対抗出来ず、またスパ・フランコルシャンではクラッシュによってアーチー・スコット=ブラウンを失ってしまう。更なる厳しい戦いに備え、「最も優れたエアロダイナミックボディを作る男」と称されていたフランク・コスティンと契約、彼の手によってリスターは非常に優れたボディデザインを持つようになる。完成したシボレー製V8エンジンを搭載した車両はリスター・シボレーまたはリスター・コルベットと呼ばれ、約50台が生産された。 |
リスター (自動車)の閉鎖 小規模なバックヤードビルダーでありながら健闘してきたが、資金繰りに困り、1958年に閉鎖を余儀なくされた。 |
リスター (自動車)のサンビーム・タイガーの開発 1963年、ブライアン・リスターはルーツ・グループから依頼を受け、ルマン・プロトタイプクラス用車両であるサンビーム・タイガーの開発に入る。タイガーはまだ開発初期の段階にあった。ブライアンはサスペンションとブレーキを改良し、空力に優れたファストバック・ハードトップと傾斜の強いフロントウインドー、コーダトロンカのテールデザインを採用した。エンジンはフォード製の4.3リッターV8(160馬力)で、シェルビーにより275馬力を引き出されていた。最高速度270kmを出すことを目標にしていたが、開発期間が短く、またシェルビーによるエンジンは信頼性に欠けた為に製作された2台のタイガーが活躍することはなかった。結果、シェルビーはエンジンの開発代金をルーツに返金している。 |
リスター (自動車)のリスター・カーズ・リミテッド 1986年、ローレンス・ピアースの手によってリスター・カーズ・リミテッドが再建された。ジャガー・XJSベースの車両が約90台製作され、更に1993年には過激な新型車リスター・ストームを発表。7リッターのジャガー製V12エンジンをフロントに搭載し、これは当時最大の排気量を持つV12エンジンであった。極めて高価格だったこともあり、わずか4台しか製造されていない。今日、リスター・カーズ・リミテッドは競技専用のリスター・ストーム・LMPを生産している。エンジンはシボレーV8である。 |
憲法改正の歌の解説 発表当時、衆議院議員在職5期目で「押し付け憲法論」の最右派として“青年将校”の異名を取っていた中曽根が「自主憲法制定」への思いを全5番の歌詞に込めたものである。1953年(昭和28年)にサンフランシスコ講和条約が発効し、進駐軍が撤退した後も日本国憲法は「マッカーサーによる押し付け憲法」として国民に無条件降伏の屈辱を強いているという否定的評価より“マック憲法”と呼び、4番では原子力開発の必要性を説いている。1956年(昭和31年)4月13日に東京宝塚劇場で自主憲法制定期成同盟が主催する発表会が行われ、作曲を手掛けた明本京静と後に自民党公認で参議院議員となる安西愛子のデュエットにより初演奏が行われた。その後も散発的に憲法改正論議の中で紹介される場合があり、作詞者の中曽根自身も後年に著書『日本の総理学』で1番と4番を取り上げている。2016年(平成28年)時点でも、中曽根は新年会や誕生会でこの曲を歌うという。 |
ユーハン・ティレンの略歴 イェムトランド地方、ヴェステルノールランド県のSjälevadに生まれた。弟に画家となったカール(Karl Tirén:1869-1955)がいる。父親は聖職者で7歳の時、家族と、同じ県内のOvikenに移った。ストックホルムの実業学校を卒業した後、1877年から1880年まで、スウェーデン王立美術院で学んだ。1880年に美術院の展覧会で賞を得るなどティレンの作品は注目された。1881年の冬はスウェーデン北部のノールランドで製作し、ラップランドを題材にした作品を制作し、これらの作品で美術院の留学奨学金を得た。オランダ、ベルギー、パリやオーバーバイエルンを旅し、1883年の春にはローマに滞在し、パリから夏はデンマークに滞在した。秋はパリに戻り、ジャン=レオン・ジェロームのもとで学ぶが、パリの風物は絵の題材としてティレンには興味が持てなかった。スウェーデンに戻り、少年時代から暮らしたOvikenに住み、ノールランドの山の風景やサーミ人の生活を描いた。サーミ人の権利の擁護のためにも尽力した。1884年、新聞記者の娘で画家、イラストレーターのゲルダ・ティレン(Gerda Tirén、旧姓Rydberg)とパリで結婚した。 |
スタンドプレイのスポーツ 野球、バスケットボールなどの団体競技で、チームの勝利よりも個人が自身の成績を優先したり目立つことを目的にしたプレイ。本来は grandstand play / grand stand play で、英語圏では通常、stand play とは呼ばない。アメリカ合衆国で1890年代に生まれた言葉である。グランドスタンド(あるいはスタンド)とは観客席のことで、主にプロフェッショナルの選手が観衆を喜ばすために行った派手なプレイを意味した。現在では、選手のプレイに限られず、動作や作業の本来の目的よりもそれを観ている聴衆や民衆、上役等にアピールする事を目的とした行為全般に使用される。また、聴衆を喜ばせたり、民意を良い方向に誘導するなど敢えて行う場合もあるが、どちらかというと、人気取りやごまかし、繕いを目的としている場合に使用されることが多い。 |
スタンドプレイの音楽 立奏、すなわち、立って (stand) 演奏 (play) すること。吹奏楽、ギターなどで呼ばれる。 |
鈴木雅の高校卒業まで 幼少期は背が低くて細身な少年であり、中学生くらいまでは整列する時に一番前で両手に腰を当てるポジションであった(つまりクラスで一番背が低かったということである)。小学校の通信簿には毎回「落ち着きがない」と書かれており、いたずらっ子でケガもよくしていた。家族は揃ってインドア派で、スポーツに打ち込むのは鈴木ぐらいであったがその割には体力がなく、週末になると野球やサッカーに夢中になって取り組むが、やりすぎて月曜日に学校を休むことがしょっちゅうあった。当時の鈴木はいかんせん体力が無いので仲間内では「三杉くん」と呼ばれていた。ウエイトトレーニングを始めたのは高校1年の冬であり、野球部のトレーニングの一環として行っていたが、これは周囲からの指示ではなく当時読んでいた『ノーラン・ライアンのピッチャーズバイブル』(ベースボール・マガジン社)の影響を受けたことによる自発的な行動であった。ピッチャーをやっていた鈴木は「ウエイトトレーニングは必須だ」というその本の記述に影響を受け、父に頼み込んで週刊少年漫画雑誌の広告に載っていたバーベルセットを買ってもらい、自宅で取り組むようになった。スクワット、ベンチプレス、ワンハンドのダンベルロウを始めたが、ベンチプレスがとても楽しかったので結局はベンチプレスばかりしていたが2年生に進級するころには90㎏が挙がり、卒業時には110㎏まで上がるようになった。40㎏台後半であった体重も60㎏台にまで増加、体脂肪が少ない体質だったので腹筋も割れ、プールの授業になるとクラスメートから「すごいなあ!」と言われた。野球部には1人ウエイトトレーニング好きの友達がおり、彼とはバッテリーを組んでいたが、ことあるごとに2人はウエイトトレーニングで重量を競っていた。2年生になると新しい体育館が建ち、小さいながらもトレーニングルームができたので、昼休みになるとよくウエイトトレーニングを行っていたしかし高校生の当時はウエイトトレーニングに対する知識が無く、重量、回数、セット数を決めたらそれをきっちり守って同じ重量でずっとトレーニングを続け、軽いと感じるようになったら初めて少し重量を増やす程度であった。 |
鈴木雅の大学時代 大学に進学すると慣れない土地でトレーニングジムを探す余裕もなく、授業とアルバイトに明け暮れるごく普通の大学生活を送っていた。大学の学部学科の中でなぜか鈴木が進んだ心理学科だけが厳しく、普通は120単位程度取得すればよいところ170単位くらい取らなければならず、さらに教職課程を履修することも必須だった。アルバイトは、平日は食品メーカーの営業として自ら車を運転して得意先を回り、土日はホテルで蝶ネクタイを付けてパーティーや結婚披露宴のウエイターをしていた。高校時代あれほど頑張っていたウエイトトレーニングもしなくなり、食事も平気で1日1食で済ましていたため、大学3年生の時には体重50㎏台のひょろひょろな体になっていた。あまりに細すぎてお気に入りであった女の子から「細い男はイヤ!」と言われたこと、当時総合格闘技やK-1が隆盛を極め、ケビン山崎が注目を浴びた頃で、世の中が肉体改造ブームに湧き上がっていたことなどもあって、トレーニングを再開。とはいえボディビルを始めようという思いは微塵もなく「ある程度筋肉が付けばいい」という考えだったので、最初に入会したのは一般的なスポーツクラブであった。1ヶ月ほどトレーニングを行うともっとトレーニングを行いたいという欲求が高まり、そこで多摩スポーツジムに入り直した。そこで中央大学ボディビル部の中島土と出会い、マッスル北村や学生ボディビル界の先輩にあたる須江正尋のビデオを見せられて影響を受けた。体を大きくするためにマッスル北村の『THE世紀末バルクアップ1999』などに影響を受けてひたすら糖質を取るように心掛けた。1食3合の米を1日3回、間食にハンバーガーを摂取。米を食べる時はポテトチップスをふりかけにして食べ、野菜は殆ど摂取しなかった。朝食に卵10個とサバ缶1缶を食べて体を作ったこともある。トレーニングの甲斐あって、体重は75㎏から76㎏になっていた。ただしウエイトトレーニングのフォームは自己流であり、とにかく重い物を持ち上げればよいと思っていた。大学在籍当時『IRONMAN』や『月刊ボディビルディング』を毎日のように読み漁っていた鈴木は、ベースボールマガジン社の当時の取締役であった田代誠が『月刊ボディビルディング』で解剖学的アプローチ(当時ウエイトトレーニング先進国であったアメリカでも、回数や○○法といった生理学的アプローチが主体であった)に基づいたウエイトトレーニングの連載を行っているのを知り、その連載の内容が鈴木の中で知識や考え方として根付き、これが鈴木が理論立てのトレーニングを行う原点となった。それでも鈴木はボディビルがどのようなものなのかまだ分かっておらず、ボディビルをやろうと決意するまでには至らなかった。4年生の時にはほぼ大学の単位を取得できていたので授業もあまりなく、実家に帰っては地元のトレーニングジムでトレーニングを行っていた。そのジムの取引先の1つがTHINKフィットネスで、毎日定時で仕事を終えてトレーニングを行える仕事に就きたいと思っていた鈴木は、オーナーを通じて採用試験を受けたいと志願し、卒業間際の3月に試験を受けた。すでに内定を受けていた鈴木は、この時は清水の舞台から飛び降りる気持ちであったことを後に明かしている。 |
鈴木雅の大学卒業からボディビルに出会うまで 22歳の4月、THINKフィットネスに入社し、鈴木はトレーナーとしてのスタートを切った。1ヶ月半の研修の場は、かつてマッスル北村がトレーニングを積んでいたノース東京。当時のノース東京は本野卓士、荒川孝行、林久司など、鈴木曰く「実にコアなメンバー」が揃っていた。ボディビル大会出場を意識するきっかけになったのは入社1年目の夏に行われた社内レクリエーションでのことであり、その年の4月に中野ヘルスクラブが閉鎖となり翌月にウエスト東京がオープンしたためTHINKフィットネスに入社したボディビルダーの小沼敏雄が「そういえば、すごく大きな子がいるよね」と切り出したことで、鈴木がボディビル大会に出ることが決まっていった。鈴木はこの時のことを「本当に出ようと燃えていた訳ではなく、失礼な話ですが、本当に軽い気持ちでした」と後にムックで述懐しており、この時点では全く本気ではなかった。褒めてくれたのもリップサービス程度にしか思っていなかったと話している。しかし、田代誠から「いい体をしているから、出てみたらいいよ」と評価されたことでその気になり、出場を強く決めた。 |
鈴木雅のボディビルダー時代 デビュー戦は2004年の東京オープン選手権。75㎏超級にエントリーし、78㎏から79㎏で出たが、仕上がりがかなり甘く、結果は同点2位であった。予選審査の段階では1ポイント勝っていたものの、決勝審査は逆に1ポイント少なく、逆転される格好となった。負けた理由については後に「ドーピングチェックのための採尿を急かされ、最終調整で我慢していた水を飲んでしまい、一気に体がむくんだのです。あっという間に体はボテッとして、腹筋も消えてしまっていました」と振り返っている。その年は、東京オープン選手権の1ヶ月後に開催された東京クラス別選手権にも出場して、75㎏超級3位に終わった。東京選手権にも出ようと思っていたが、マシンの修理中に不注意から大きな切り傷をつくってしまい、エントリーを諦めた。この東京選手権で史上最年少優勝を果たした須山翔太郎がすごすぎたので「出なくてよかったです」と振り返っている。ほろ苦い結果に終わったデビュー戦について後に鈴木本人は「これでよかったと思います。なぜなら2位だったことが相当悔しかったから。弱点もたくさん見つかりましたし、何より自分の甘さを痛感しました」「もしデビュー戦で優勝していたら、ですか?きっとボディビルのことを舐めていたと思います。そして、いつの間にかボディビルシーンから姿を消していた…なんてこともあるのかもしれません」と感想を述べている。2005年の開幕戦は東京クラス別選手権であり、このときも大会の1ヶ月から2ヶ月前にはハムストリングを切ってしまい、この状態で減量すれば確実に小さくなると思い、仕上がりの厳しさよりも筋量維持を優先した。そのためこの大会は75㎏超級で5位に終わった。当日の体重は80㎏から81㎏であり、本人は「当然ながら甘かったです」と反省の言葉を述べている。なお東京クラス別選手権の前後に付き合っていた女性にフラれており、9月の東京選手権に向けた2ヶ月間はやけくそに練習してカロリーを消費する状況であった。普通のトレーニングに加えて起床後に40分の有酸素運動、朝食食べてトレーニング、昼休みに20分の有酸素運動、仕事を終えると勤務先のウエスト東京のある中野から自宅のある新宿までを徒歩で往復などと、ひたすら動いてカロリーを消費した。東京選手権を迎え、控え室では顔がパンパンであることをほかの選手に指摘され、一見絞れていないように見えたが、見る人が見れば優勝争いできる仕上がりであり、結果は優勝。この大会における自身の仕上がりについて鈴木は「ポージングの練習もあまりしていなかったですし、ボディビルがまだまだわかっていませんでした」「最終調整に関しても、手探り状態。水も塩も抜きすぎてしまい、筋肉が全く張らなかったですね。(中略)動いて痩せようとしていましたから、運動量の多さに疲弊した状態だったのです」と後に総括している。人生初のボディビル優勝を手にした直後、日本選手権の話が鈴木の元に舞い込んだ。この年の東京選手権は例年より開催が遅かったため、既に日本選手権のエントリーは締め切られた後であったが、東京ボディビル連盟推薦という形で鈴木は特例で急きょエントリーが認められた。当初鈴木はエントリーを迷ったが、ある人から「東京選手権で優勝した人は、日本選手権で決勝に残るか残らないかの当落線上ぐらいのレベルだから、(日本選手権に)出なきゃいけないんだよ」と言われたこともあって、そういうものなのかと思いエントリーすることにした。「東京選手権で優勝した人は…」という話がプレッシャーになる中での出場であったが、日本選手権の結果は12位入賞。2005年の日本選手権ではサイズ不足を痛感し、その後は5年間かけて体を大きくし、日本選手権で優勝するという5ヶ年計画を立てた。2006年は73㎏であった2005年により8㎏増の81㎏で出場したが、結果は伴わなかった。そしてその後は2007年の8位、2008年の7位と、徐々に順位を上げた。ライバルであり同世代のボディビルダーである須山翔太郎が2007年から日本選手権にエントリーするようになったのも大きなモチベーションになった。2009年の日本選手権は絞りが上手くいっていたため、それ以前までセカンドコールどころかサードコールでもなかなか呼んでもらえず後ろに待機してばかりであったのが、この年のこの大会では初めてファーストコールで呼んでもらうことができた。最終順位は4位と表彰台まであと一歩であった。そして5ヶ年計画の最終年にあたる2010年に日本選手権を初優勝。本人は5ヶ年計画を一生懸命やるだけのつもりであったのでまさか優勝できるとは思っていなかったと驚いている。減量が上手くいっていたことが勝因であり、この年はトレーニングも週3回はダブルスプリットという増やしようであった。しかしこれ以降はこれまでの無理が祟ってケガと戦いとなり、ウォームアップを丁寧に行わないと体中に神経痛のような痛みが走るほどになった。日本選手権初優勝までの間に、国際大会は2007年と2008年の東アジア選手権、2008年のアジアゲームズ、2009年のワールドゲームズに出場した。 |
鈴木雅の日本選手権初優勝以降 以降、日本ボディビル選手権を7連覇、2016年3月のアーノルド・クラシック・アマチュア男子ボディビル80㎏級優勝の実績を残した。鈴木は2010年に初優勝した後、2011年は連覇が命題であった。チャンピオンとしてのプレッシャーが最高であったのは田代誠が7年ぶりにボディビルのステージに立った2012年であり、6年間第一線から退いていた田代に優勝をさらわれたら自分はいったい何をやっていたんだということになるので鈴木は必死であった。 |
クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前213年の執政官)の出自 パトリキ(貴族)であるファビウス氏族の出身。ファビウス氏族はローマのパトリキ(貴族)の中でも最も著名で影響力のある氏族の一つである。後の資料ではファビウス氏の先祖はヘーラクレースとニュンペーであるとされている。もともとの氏族名はフォウィウス、ファウィウスまたはフォディウスであり、ファビウス氏族によって栽培が始められたソラマメ(ファヴァ)に由来するといわれる。さらに面白い説では、ラテン語で「穴を掘る」という意味の「fovae」を起源とし、これはファビウス氏族が狼を捕らえるために穴を掘っていたためとされる。但し、T. Wisemanはこの説を「面白いが事実ではないだろう」としている。マクシムスの父は、「ローマの楯」と呼ばれたクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートルである。マクシムスには、資料には記録されていない兄弟がいたと推定される。また、同名の息子がいたが、早い時期に死亡している。 |
クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前213年の執政官)の経歴 マクシムスが最初に歴史に登場するのは紀元前217年のことで、父マクシムス・ウェッルコススが独裁官(ディクタトル)に就任し、ハンニバルとの苦しい戦いを続けていたときのことである。マクシムスは父の「ローマの古い美徳」を示す二つのエピソ-ドに登場する。捕虜の身代金支払いに関して元老院の決断が遅れているとき、マクシムスは父の命令に従ってローマに戻り、家族の不動産を売却することによって市民の負担を軽減した。もう一度は、マクシムスが父に対して、少数の兵を犠牲にして有利な位置を確保することを提案したとき、父は「お前はその少数の中には加わりたくはあるまい」と答えたというものである。紀元前216年、マクシムスは執政官ルキウス・アエミリウス・パウッルスとガイウス・テレンティウス・ウァロが率いる軍の、第一軍団のトリブヌス・ミリトゥムを勤めた。ローマ軍はカンナエの戦いに大敗するが、マクシムスはカヌシウム(現在のカノーザ・ディ・プーリア)に脱出できた一人であった。生存者の中にはプブリウス・コルネリウス・スキピオ(後のアフリカヌス)とアッピウス・クラウディウス・プルケルも含まれていた。紀元前215年、父は三度目の執政官に就任したが、マクシムスも上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任した。翌紀元前214年、父は四度目の執政官を務めるが、マクシムスは法務官(プラエトル)に就任し、アプリア(現在のプッリャ州)のルケラ(現在のルチェーラ)付近で2個軍団の指揮をとった。マクシムスがアクカを占領したことが知られている。紀元前213年には執政官に就任し、アプリアにおけるローマ主力軍の指揮をとった。このような早い昇進(3年間に3つの重要な官職を務める)は、当時としては稀有のことであった。現代の研究者は、これは彼自身の能力というより、父の政治的重要性によると考えている。ティトゥス・リウィウスは、このとき父マクシムス・ウェッルコススがマクシムスの軍のレガトゥス(副官)を務めたと記している。プルタルコスによれば、レガトゥスである父が近づいてくるのを見たマクシムスは、リクトル(護衛)を介して「任務のために来たのであれば下馬すべきである」と伝えさせた。父はそれに従っただけでなく、その態度を賞賛した。しかし現代の歴史家は、マクシムス・ウェッルコススはこのときローマにいた可能性が高かったと考えている。マクシムスの作戦の成功例の一つはアルピ(en)を奪回したことである。雨の夜にマクシムスの兵士たちは防御する敵軍兵士がいないことを見て城壁をよじ登って市内に突入した。市街戦が始まると、市民たちはローマ軍を支援した。カルタゴ軍の守備兵力は5,000であったが、その中のイベリア兵1,000が降伏した。降伏条件は他のカルタゴ兵を解放するというものであったが、マクシムスはこれを守った。その後のマクシムスに関しては、あまり重要ではないできごとに関連して、何度か触れられている程度である。紀元前212年には、占領したアルピに分遣隊を率いて留まっていた。紀元前209年、父(五度目の執政官を務めていた)の命令に従って、エトルリアからシキリア属州に部隊を輸送している。紀元前208年、マルクス・クラウディウス・マルケッルスが戦死した後、ウェヌシア(現在のヴェノーザ)で一時的に彼の軍の指揮を引き継いだ。最後の記録は紀元前207年のもので、執政官マルクス・リウィウス・サリナトルのレガトゥスを務めており、ローマに戻って元老院に対して、ガリア・キサルピナから軍を撤退させる旨を報告している。マクシムスは父の面前で死去したとされており、したがって紀元前207年から紀元前203年(父の死亡年)の間のことである。父は「一人の人間としてまたよき父として大きな悲しみにくれた」。また父が主催した葬儀での演説は、後に出版されている。マルクス・トゥッリウス・キケロはその著作『大カト・老年について』で、大カトの口を通じて、この演説は「誰もが知っていた」と述べているが、おそらくはキケロ自身もこれを読んでいたと思われる。 |
ポーツマス海軍造船所の概要 工廠は1800年に開設されており、アメリカ合衆国で最も古い海軍工廠の一つである。1814年には74門搭載の戦列艦「ワシントン(USS Washington)」が建造されている。また、1974年まではポーツマス海軍刑務所(Portsmouth Naval Prison)も併設されていた。1905年にはセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、ポーツマス条約の交渉地となった。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市の隣のニューキャッスル(New Castle, New Hampshire)のホテルから、船で工廠に赴いて交渉を行った。2005年には調印100周年の記念式典が行われている。2005年に一時、工廠の閉鎖が検討されたものの、従業員をはじめとする反対運動が行われ、閉鎖は撤回されることとなった。 |
ホラガイの楽器としての利用 貝殻の殻頂を4-5センチ削り、口金を石膏で固定して加工した吹奏楽器が、日本、東南アジア、オセアニアで見られ、日本では、使用例は平安時代から確認でき、12世紀末成立の『梁塵秘抄』の一首に、「山伏の腰につけたる法螺貝のちやうと落ちていと割れ砕けてものを思ふころかな」と記され、同じく12世紀成立の『今昔物語集』においても、本朝の巻「芋がゆ」の中で、人呼びの丘と呼ばれる小高い塚の上で法螺貝が使用されていた記述がある。戦国時代には合戦における戦陣の合図や戦意高揚のために、陣貝と呼ばれる法螺貝が用いられた。現存する中世の法螺貝笛として、「北条白貝(大小2つ、日本名貝の一つ)」があり、現在、福岡市美術館所蔵で、由来は16世紀末の小田原征伐の際、降伏した北条氏直が黒田如水の仲介に感謝し、贈ったものの一つとされる。修験道においては、立螺作法(りゅうらさほう)と呼ばれる実践が修行される。立螺作法には、当山派・本山派などの修験道各派によって流儀を異にし、吹奏の音色は微妙に違う。大まかには乙音(低音側)、甲音(高音側)、さらには調べ、半音、当り、揺り、止め(極高音)などを様々に組み合わせて、獅子吼に擬して仏の説法とし、悪魔降伏の威力を発揮するとされ、更には山中を駈ける修験者同士の意思疎通を図る法具として用いられる。昭和初期に発表された醍醐寺三宝院当山派本間龍演師の『立螺秘巻』は、その後の修験者、とりわけ吹螺師を修行する者の必須テキストとして評価伝承されている。東大寺二月堂の「お水取り」では、堂内から鬼を追い祓うため、法螺貝が吹き鳴らされる。J-POPでは歌手の忌野清志郎が生前よくライブ等で愛用していた。楽器分類法上は、唇の振動で音を出すため金管楽器に分類される。 |
焼酎蔵薩洲濱田屋伝兵衛の概要 昔ながらの製法で芋焼酎の「伝」「宇吉」「兼重」等を製造している。 甕(かめ)仕込み、木桶蒸留、甕貯蔵の仕込みの様子を見ることができる見学蔵としても知られている。 敷地面積は約1万4800平方メートル、平屋建てで延べ床面積は約3000平方メートル。レストランも併設しており、年間で約1万人の観光客が訪れる。2018年4月末に改装オープンを予定している。濵田屋伝兵衛は、地元の古い木造校舎や郵便局などの建築を移築し、仕込み蔵として使用していた。その一部である仕込み工程の部分を2006年1月末に焼失し、仕込み活動を中止していた。焼失した部分に新しい仕込み工程の施設を建設する計画も浮上したが、2006年9月10日に消失した部分に蒸留時に生まれるお湯を利用した庭園をつくり、残った他の木造建築の内部を大胆に改造し、蔵を再開させた。 |
青海川駅の概要 同じくJR東日本の駅である鶴見線の海芝浦駅・仙石線の陸前大塚駅などと共に、「日本一海に近いところにある駅」といわれる。プラットホームから見える、日本海に夕陽が沈む光景は、日本一美しいと謳われる。 |
青海川駅のエピソード TBSテレビドラマ『高校教師』や『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』のロケーションにも使用されたのを始め、堀北真希出演のドキュメンタリー『その先の日本を見に。~少女と鉄道・一筆書きの夏~』(フジテレビ NONFIX 2004年(平成16年)7月9日放送)など、様々なジャンルの映像作品に登場している。当駅の開設間もない1900年(明治33年)に制作された「鉄道唱歌」第4集北陸編でも、「みわたす空の青海川 おりては汐もあみつべし」と歌われた。なお、当駅には、臨時快速列車「越乃Shu*Kura」(ゆざわShu*Kura・柳都Shu*Kuraを含む)が記念撮影等のために停車するため、オリジナルデザインの駅名標が設置されている。 |
青海川駅の駅構造 相対式ホーム2面2線をもつ地上駅である。両ホームは跨線橋で連絡している。長岡駅管理の無人駅で海岸段丘下に沿って設置されているためホームが狭い。 |
青海川駅の地震による被災 2007年(平成19年)7月16日10時13分に発生した新潟県中越沖地震で、当駅に隣接した崖および法面の大規模崩落が起こり、プラットホームの一部と線路、架線が土砂によって埋まる(または切断される)という被害を受けた。この被災により、海側プラットホームの基礎が10数センチメートルずれ、外側に歪んでしまった。復旧工事においては駅舎(待合室)を撤去した上で、セメントサイロを建てるなど、かなり大きな規模となった。復旧工事の完了に伴い、当駅を含む、最後まで不通となっていた柏崎 - 柿崎間の運行を9月13日より再開した。これにより中越沖地震による信越本線の不通区間はすべて解消された。新潟県では当駅付近の崖崩れが起きた箇所について、鉄筋コンクリートで固めたり、線路脇に鉄柵を設置したりして線路への土砂侵入を防止するなど、新潟県中越沖地震を受け、災害防止のための工事を本格的に進めた結果、2008年(平成20年)3月に全ての工事が終了した。2008年(平成20年)3月25日、地震で崩壊した旧駅舎に替わる新駅舎が落成し、供用を開始した。 |
海台の概説 朝鮮中央通信によると、1952年3月、国際民主法律家協会調査団が現地に入り、「朝鮮での事件は戦争ではなく、犯罪であった」と糾弾した。また、1958年3月26日、この地に信川博物館が開設され、開戦を挑発したアメリカ合衆国(米国)は1950年10月17日から12月7日まで52日間にわたって当地を占領、住民3万5383人を虐殺したとして、6465点の遺物・証拠資料と450余件の写真資料が展示されている。2005年8月16日には、信川郡猿岩里において、この事件は国連の看板のもとでなされた米国の戦争犯罪であるとの国際弾劾大会が開かれた。他方、大韓民国(韓国)の小説家黄晳暎は、現地を取材し、また、この地で生まれ育ったニューヨーク在住の韓国人牧師から当時の目撃談を聞いて、2001年に小説『客人(ソンニム)』を著した。同書は、虐殺は北朝鮮政府が公式に伝えるような米軍によるものではなく、プロテスタントの民族主義者たちによるものであり、朝鮮戦争は南北の軍や米軍・中国軍の戦争であっただけでなく、同じ村人たちの殺し合いでもあった、としている。黄は、北朝鮮政府の見解を支持する人々からも、韓国のキリスト教関係者からも指弾された。画家パブロ・ピカソは、1951年、この事件をもとに「朝鮮の虐殺」(ピカソ美術館 (パリ)蔵)を描いた。 |
バランスバイクの設計 バランスバイクには金属製のものと木製のものがある。ペダルと関連部品が取り除かれた通常の自転車か、あるいは専用のもの(特に通常の自転車が一般的に入手できない非常に小さな子供のため)がある。ブレーキはないか、1つあるいは2つの手動リムブレーキがある。適切に機能するために、バランスバイクは乗り手がサドルに楽に座り、両足裏が地面に着く体勢で歩くことができるように十分小さなくなければならない。乗り手は最初はサドルにまたがって歩き、次にサドルに座って歩く。最終的には、乗り手はバイクに乗っている間に走ったり突進したりするのに十分な程心地良く感じ、次に両足を地面から話して、2つの車輪でバランスを取りながらゆっくり進む。 |
バランスバイクの学習法 バランスバイクの製造業者らは、バランスバイクによってまずバランスと逆操舵を学び、その後にペダル操作を学ぶことで子供が自転車の運転をより速く学ぶことができると述べている。また、補助輪を使うと子供がそれに依存し過ぎるようになり、悪い癖を身に付けてしまうため学習を遅らせると述べている。小児科医らは、補助輪を使わないことで自転車により速く乗れるようになるという証拠は存在しないと述べている。自転車が倒れるのを防ぐ補助輪は、同時に逆操舵をも妨げるため、三輪車と同様に、子供はハンドルバーを誤った方向に向けることを覚えてしまう。Sheldon Brownは、補助輪の位置が低過ぎるとバイクが傾くのを妨げてしまい、また後輪に適切に体重がかからなければブレーキングを邪魔してしまうため、誤って調整した場合には学習の障害になり得ると記している。補助輪を適切に調整し、子供の技術が上がれう程に補助輪の位置を挙げることでこれらの問題を避けられる。ブレーキを全く持たないバランスバイクでは乗り手の足でうまく停止できないことが予想されるが、非常に小さな子供はどちらにせよブレーキを効果的に使うことができないだろう。Brownはバランスバイクを別に購入するのではなく、単に通常の子供用自転車のペダルを外すことを薦めている。 |
バランスバイクの歴史 初のバランスバイクは、カール・ドライスによって発明されたドライジーネである。ドライジーネは二輪でペダルを持たず、今日の自転車の原型となった。 |
バランスバイクの法的立場(日本) 日本において、バランスバイクの法的立場は乗用玩具となっている。このため公道での走行は認められていない。ブレーキが付いていても自転車とは認められていない。走行する場所は、公道はもちろんのことであるが、公道への飛び出しの可能性がある場所・車両の往来する可能性がある場所・坂道および坂道付近・階段や段差およびその付近・危険な障害物がある場所・プールサイドや水辺付近・乳児がいる場所・他に遊んでいる子供がいる場所を避けるべきである。 |
マローヤの地理 シルス湖の端に位置する。キアヴェンナ(伊)からブレガリア谷を経てマローヤ峠を越えた地点(峠の東側)にあり、ブレガリア地方とオーバーエンガディン地方を結ぶ。人口330人(2012年9月現在)。行政上はブレガリア市に属しており、ブレガリア地方に属するが、地形的にはオーバーエンガディンの南西端に位置する。マローヤはアルプスを題材に数多くの作品を残した画家、ジョヴァンニ・セガンティーニが晩年過ごした村として知られる。村にはセガンティーニのアトリエや墓があり、周辺の情景はセガンティーニの作品の中にも残されている。村の中心部から徒歩約20分のところにあるのがベルヴェデーレ・タワー。1882年から1903年にかけ、中断期間を経て建てられた。もともとホテルとしてオープンしたが、その後建物自体は廃墟となり、現在はブレガリア谷を望む展望スポットとして一般公開されている。 ベルヴェデーレ・タワー付近には、氷河の浸食でできた歐穴が展示され、散策をしながら巡ることができる。サン・モリッツ St. Moritz, Bahnhofから定期路線バスで約35分。 |
かいじゅうのうたの背景 前作から約1年ぶりとなるシングル。 |
薩摩川内市立川内南中学校の概要 薩摩川内市平佐町にある中学校で、薩摩川内市が誕生する以前は、川内市立川内南中学校であった。2006年5月1日現在の生徒数は618名で、各学年の学級数は5 - 6学級である。 |
QF 1.5ポンド砲の概要 イギリス海軍では、当初予定されていた29口径37mm機銃(QF 1ポンド砲)が欧州大陸への派遣地上部隊にまわされたことによる供給不足を補うためにマークスマン級駆逐艦の一部で搭載されたほか、L級以前の駆逐艦の一部でも搭載された。またアリシューザ級軽巡洋艦の一部にも搭載されたほか、少数がオーストリア=ハンガリー帝国海軍にも輸出された。第一次世界大戦で艦載用の近接対空兵器として用いられたが、成績不良のため、まもなく39口径40mm機銃(QF 2ポンド砲)によって代替されており、1939年までに運用は終了したものとみられている。 |
キックセラの特徴 この属にはただ1種 K. alabastrina のみが知られる。以下の記載はこの種のものである。培地上のコロニーは白(あるいは淡いクリーム色)。栄養菌糸は無色で規則的に隔壁を生じるが、後にはやや不規則になり、また時に大きさや形が不定なふくらみを生じる。菌糸の径は4-8μm。 |
キックセラの無性生殖 無性生殖は出芽的に生じる胞子による。この胞子は実際には単胞子の分節胞子嚢とされる。胞子形成柄は直立し、隔壁があり、その表面はわずかにざらつく。柄は当初は単一だが、後に下部から横に分枝を出すことを繰り返す。柄の太さは12-25μmか、あるいはより太く、高さは1-2mmに達する。その先端はやや膨らみ、その部分の周辺に輪生状に独特の胞子形成枝(スポロクラディア)を形成する。スポロクラディアは9-15(平均12)がほぼ同時に生じ、スポロクラディアは弓状に上向きに曲がる。普通は3つの細胞からなって長さ65-85μm、太さ10-13μm。それらの細胞は基部と先端側がほぼ長さが等しく、中間のものはそれらの3分のiti程度の長さ。先端のそれは細くて胞子を形成しない。先端はわずかに割れるか、時に単純。スポロクラディアの先端の細胞をのぞく部分の上面には胞子形成細胞である偽フィアライドが多少とも横並びの配置で一面に並ぶ。偽フィアライドは卵形で、6-6.5×3.5μm。胞子はその先端から出芽するように形成される。一つの偽フィアライドからは胞子は1つだけ生じ、紡錘形で長さ13-17μm、幅は3.5μm。その先端部では胞子嚢壁と胞子の壁との区別が見て取れる。この科のものは湿性胞子を作るものが多く、ブラシカビなどでは1つのスポロクラディア上の胞子がすべて一つの粘液球に含まれる。そのためスポロクラディアの片面に粘液球がくっついた形となる。しかしこの種の場合、スポロクラディアの胞子形成面は、すべて柄の先端に向かって寄り合っており、それらすべてから形成される胞子は、その中央に形成される単一の大きな粘液球に含まれる。そのため、外見的には直立した柄の先端から出るスポロクラディアの作る杯の上に、一つの大きな水滴が乗る、という形になる。胞子は好適な培地の上では発芽管を出して菌糸体に発達する。発芽管は胞子の中央から両側に2本出る。 |
キックセラの有性生殖 有性生殖は菌糸の接合により、接合胞子を作る。また、自家和合性であり、単独株でも接合胞子を形成する。特に分化の見られない菌糸間での接合が行われ、形成されるものは球形から卵形で、厚壁ながら表面はなめらかで無色、径は3-7μm(平均5μm)で、内部には小粒が多数含まれる。 |
キックセラの分布と生育環境 北アメリカやヨーロッパから発見され、日本からも2回だけ記録があるが、その発見例は少ない。多くの例で、ほ乳類の糞から発見されている。なお、培養下では通常の室温とされる25-30℃ではよく育たず、20℃ではよく成長し、無性胞子を多く形成し、また6-7℃においても非常によく生長、胞子形成が見られる。また有性胞子の形成はやはり6-7℃の温度条件で、2週間の培養で確認された。これらはこの菌が低温を好むことを示唆する。 |
キックセラの経緯 この属の唯一の種は ユージン・クーマンが1862年に記載したものである。これは後にキックセラ科にまとめられた菌の中で最も早いものである。ただしこの際、彼はこのカビの無性生殖器官と共にケカビ様の球形の胞子嚢と子嚢を含んだ閉子嚢殻についても記述している。この点ではその後に若干の混乱をもたらした。それ以降、これに近縁の複数属種が知られるようになり、それらは接合菌か不完全菌かで論議が続いた。Linder(1943)はこの種と Martensella 、それにブラシカビの3属を近縁のものとして検討し、これらをまとめてキックセラ科を立てることを提案し、それを接合菌綱ケカビ目に含めた。この判断は、ブラシカビにおいて未成熟な接合胞子を確認したことによる。この種自体の接合胞子は Benjamin(1958) が確認した。これはそれまでの研究者が厚膜胞子と見なしていたものであった。後にこの科は独立目のキックセラ目とされ、さらに21世紀初頭の菌類の分類体系の見直しによりケカビ目とは切り離され、キックセラ亜門に所属するに至った。なお、Kurihara(2002)はこの目を細分すべきと論じているが、この属の位置についてはブラシカビなどと共にキックセラ科の主要な属と近縁とし、分子情報による系統樹ではリンデリナ属 Linderina との位置が最も近いとしている。 |
土生田純之の略歴 1951年(昭和26年)、大阪府生まれ。天理大学文学部卒業後、関西大学大学院博士前期課程を修了。宮内庁書陵部陵墓調査室員、同主任研究官、専修大学文学部助教授を経て現在同学部教授。専門は日本考古学。とくに古墳時代・飛鳥時代を主な研究領域としている。 |
稲村ジェーン (サウンドトラック)の背景 サザンオールスターズの桑田佳祐が監督した映画作品『稲村ジェーン』のサウンドトラック作品で、同年発売の『Southern All Stars』からも楽曲が収録されているほか、松田弘・原由子などサザンオールスターズのメンバーも参加していることから、「SOUTHERN ALL STARS and ALL STARS」(サザンオールスターズ アンド オールスターズ)の名義を用いている。サウンドトラックであることや、収録曲の参加ミュージシャンなどの関係上、本来サザン名義のオリジナルアルバムではない。1998年、2008年に本作が再発された際には、そのCDに付いてくる帯で「10th Album」と表現されていることから、現在公式にはサザン名義のオリジナルアルバムとして扱われている。また、サザン名義の楽曲も含まれていることから実質はサザンのメンバー全員が参加していることとなる。サザン以外の参加メンバーに関しては、稲村オーケストラを参照のこと。 |
稲村ジェーン (サウンドトラック)の制作 カップルが『稲村ジェーン』を観に来たという設定での会話が収録されており(カップルの男性役はサザンと同じアミューズ所属の寺脇康文)、作品上の台詞もわずかながら収録されている。既発曲には全て台詞が入り、曲自体は同じであるものの収録時間が異なっている。スペイン語曲もいくつか収録され、ルイス・サルトールの作詞と桑田の作曲での共作になっている。また、それまで桑田ソロやサザン名義では存在していなかったカバー曲も収録された。更に作品化されたものとしては初めて、桑田作曲のインスト曲も収録されている。なお、この作品では、後にサザンの作品に深くかかわることになり、映画にも出演していた小倉博和が初めて本格的にレコーディング参加している。 |
稲村ジェーン (サウンドトラック)のリリース 1998年の再発盤の初回限定盤は、オリジナルLP復刻ジャケット(いわゆる紙ジャケット)仕様で、岩井俊二によるライナーノーツが封入されている。 |
稲村ジェーン (サウンドトラック)のチャート成績 本作は累計133.7万枚(オリコン調べ)を売り上げて、ミリオンセラーを記録している。また、前作から続きオリジナルアルバムでは2作連続ミリオンになった。出荷枚数では累計200万枚を記録している。 |
山北駅の概要 山北町の中心部である山北地区に位置する駅。開業は1889年(明治22年)2月で、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化により運営事業者は日本国有鉄道(国鉄)からJR東海に代わった。かつては山北機関区を擁する山越えの拠点駅であり、山間部にありながらも山北は鉄道の町として栄えた。急行列車が停車していた時代もあったが、現在は普通列車のみの停車駅である。当駅で折り返す国府津駅方面行きの列車もあり、かつては東京駅からJR東日本車による直通もあったが、2012年ダイヤ改正で廃止された。 |
山北駅の歴史 1889年(明治22年)に開業した国府津駅 - 沼津駅間の東海道本線は、現行の熱海駅経由のルートでは山岳地帯を通過することから建設が困難とされたため、御殿場駅を経由するルートで建設された。そのため、山北駅も東海道本線の駅として開設された。御殿場経由のルートには25パーミル(1000m進むと25m標高があがる勾配)という鉄道にとっては厳しい勾配区間が連続し、補助機関車(補機)による補助なしでは通過できなかった。山北駅では国府津方面から沼津方面へ向かう下り列車に補機を連結する作業が行われ、その補機の機関区が駅構内に設置された。鉄道が開通するまで何もなかった山間の集落は、箱根越えの要衝の駅を擁する町となり、活況を呈するようになった。大正から昭和初期にかけての最盛期には、650人もの職員が駅や機関区などで働いていたと言われる。山北駅は、補機連結のほか、蒸気機関車に石炭や水を供給する役割も担ったため、急行列車も必ず停車していた。停車列車が増加すると、鮎寿司の駅弁や山北産のみかんが販売されるようになった。機関区では多くの蒸気機関車が待機し、大量の煙を上げていたために、「山北の雀は色が黒い」という言葉があったほどである。しかし、1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通を機に、駅の賑わいは消えていった。トンネルの開通によって東海道本線が熱海経由のルートに変更され、山北を通る路線が「御殿場線」という地方路線となったためである。停車する旅客列車・貨物列車の本数は削減され、それに伴って駅員・機関区の機関士も削減されていった。1943年(昭和18年)には御殿場線の資材供出に伴う単線化と、山北機関区の廃止がなされた。その後、駅裏手の機関区跡地には公園(山北鉄道公園)が設けられ、御殿場線で使用されたD52形70号機が静態保存されている。こちらを動態化させる町の「奇跡の復活事業」の一環として2016年3月18日には圧縮空気による試運転が行われた。町は新たな観光資源としてSL動態化に着目し、国の「地方創生」事業にも認められ、前年から着手。最終的には本線への復帰も考えられているという。 |
山北駅の駅舎・設備 駅の出入口は、構内北側と南側の2か所にある。構内北側の出入口は木造の駅本屋(駅舎)になっている。駅舎からホームへの移動用に、1番線を跨ぐ跨線橋が設置されている。構内南側の出入口は、ホーム東端から構内踏切で2番線を渡った先にある。ホーム端部・出入口ともにスロープになっているので、段差なしでホームに上ることができる。松田駅管理の簡易委託駅である。利用客の減少を受けて2012年3月17日のダイヤ改正においていったんは無人化されたが、自治体との協議の結果、地元のNPO法人「情緒豊かな町づくり」が山北町から委託をうけて運営することにより、5月26日に販売が再開された。営業時間は9-17時。但し、マルスは設置されていないため、管理駅発行の簡易委託乗車券のみの販売となっている。この切符販売の再開に際しては、調査でよく利用されていた駅までの切符のみが販売されることになった。尚、切符は長い切符のため、自動改札機は通ることができない。 |
Kolibreeの沿革 2014年設立。同年4月にKickstarterを通じて、各種センサーを内蔵し、歯磨きをした時間、口腔内をくまなく磨けたかどうか、ブラシの動かし方(横方向だけでなく縦方向にも動かしたかどうか)などをチェックし、スマートフォンの専用アプリにデータをBluetoothで無線送信し、蓄積する「Kolibree」を製品化するためのクラウドファンディングを行い、約11万ドルの調達に成功した。2017年には世界で初めて人工知能を内蔵したスマート歯ブラシ「Ara」を発売する。2018年には世界で初めて拡張現実 (AR)を利用した歯ブラシ(およびスマートフォンアプリ)「Magik」を販売予定であることをCES2018で発表した。「Magik」は「CES 2018 INNOVATION AWARD」を獲得している。 |
青春18きっぷの概要 日本国有鉄道(国鉄)旅客局が、運賃増収策の一環として企画し、1982年(昭和57年)3月1日に「青春18のびのびきっぷ」として発売を開始。1983年(昭和58年)春季発売分から現名称に改称した。主に学生などの春季・夏季・冬季休暇期間を利用期間として発売され、原則として新幹線・特急・急行を除く旅客鉄道会社全線の普通列車・快速列車など、運賃のみで乗車できる列車に乗車することができる。2014年(平成26年)夏季以降の販売価格は、5回(人)分で11,850円(消費税率8%化にともなう改定)。第1回発売時は8,000円で、のち10,000円に変更。1986年(昭和61年)冬季に11,000円に値上げされた後、1989年(平成元年)4月1日に、消費税の導入と税率引き上げによる値上げが行われて、現行価格となっている(なお、後述のように2007年(平成19年)春季はJR発足20周年・青春18きっぷとして8,000円で発売)。主として学生向けの商品として企画されたが、利用者の年齢制限はなく、小児運賃の設定もない。JRホテルグループの予約センターに宿泊を申し込み、当日現地で青春18きっぷを提示すると、ホテル宿泊料金の割引等が受けられるなどの特典が一部に設けられている(関連商品参照)。「青春18きっぷ」の名称の由来については、当時国鉄旅客局長だった須田寛により、青少年・学生をイメージした「青春」と、その象徴的な年齢で「末広がりの8」にも通じる「18」を組み合わせたと、後年に須田が説明している。国鉄分割民営化後、JR各社を代表して東日本旅客鉄道(JR東日本)が1994年(平成6年)に商標登録(商標登録番号第3007644号)を行った。 |
青春18きっぷの効力 1枚で、利用可能期間中の任意の日に5回まで利用できる。5回分は一度に連続して使用しなくてもよく、利用期間内であれば別々の日に1回ずつ使うことができる。1枚を複数人数で同時に使うことも可能で、その場合は同一日に人数分の回数を使用することになる。未使用のきっぷであれば1枚を1日に5人で同時に使用することも可能である。ただし複数人で使用する場合、入場・出場時は集団で行動することになる。自動改札機は利用できないため、有人通路を利用する。現行の様式となってからは、1枚の券面に5箇所ある乗車日記入欄への改札印の押印等による日付の記載により使用開始を示す方式を採用しており、各回とも最初に乗車する際に、有人駅の場合は有人改札の駅員に、無人駅においては乗車した列車の車掌(ワンマン運転の場合は、停車中に車掌業務を行う運転士)が乗車印と日付を記入する。1回分は原則乗車日当日限り有効で、乗車日内(0時から24時までの間)であれば、何度でも乗降や途中下車ができる。日付をまたいで運転する列車については、0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効(0時を跨いで停車している列車はその停車駅まで有効)である。なお、これは「乗降可能な駅」のことであり、時間調整や乗務員交代等のいわゆる「運転停車」は通過扱いなので、これに該当しない。例えば、2009年に廃止になったムーンライト九州は日付変更前に厚狭駅を出発し、日付変更後に広島駅で運転停車していたが、岡山駅までは乗降できなかったので岡山駅まで有効とされていた。ただし、東京および大阪近郊の電車特定区間(大都市近郊区間ではない)では0時を過ぎても、終電まで有効である。なお、乗車日の24時(翌日0時)以降終電までに、電車特定区間の駅と区間外の駅との間を乗車する場合は、電車特定区間の境界の駅と区間外の降車駅との間で有効な乗車券などが必要となる。このことから、特に夜行列車を利用する旅客にとって(前日夜に乗車してから日付が変わるまでの区間において)青春18きっぷを2回分使用したほうが得か否かは、その列車が0時を過ぎて最初に停車する駅によって左右される。例えば2007年のダイヤ改正において、下り「ムーンライトながら」の日付変更駅は横浜駅から小田原駅へと大きく移動した。 |
青春18きっぷの一部の第三セクター鉄道の普通列車に乗車できる特例 接続していたJR幹線が新幹線の開業により並行在来線として経営分離・第三セクター化されたことでJR在来線との接続がなくなったJR路線(飛び地路線)について、その飛び地路線の起点の駅につながる一部の第三セクター鉄道区間の普通列車・快速列車自由席を通過利用できる。対象となる区間は下記の各路線で、いずれもJR線と第三セクター路線との接続駅ではその飛び地路線を利用するかどうかにかかわらず乗降が可能であるが、接続駅以外の第三セクター鉄道区間内の駅では乗降できない(乗降する場合は第三セクター鉄道区間の乗車した全区間の運賃を別途支払う必要がある)。下記以外の区間は対象外。 |
青春18きっぷの道南いさりび鉄道線 「青春18きっぷ 北海道新幹線オプション券」を本きっぷと併用することで木古内 - 五稜郭間を通過利用することが可能。「青春18きっぷ 北海道新幹線オプション券」は2016年3月26日の北海道新幹線の開通の際、海峡線から在来線の旅客列車が廃止されたことと江差線が道南いさりび鉄道に経営分離されたことで北海道と本州の間が普通列車で接続できなくなったために発売された。詳細は#使用できない路線の記載を参照。 |
青春18きっぷの青い森鉄道線 青森 - 野辺地 - 八戸間を通過利用できる。青森・野辺地・八戸の各駅でのみ乗降できる。2010年12月4日に東北本線の青森 - 八戸間がJR東日本から青い森鉄道に経営分離された際、大湊線は他のJR路線との接続が無くなり、八戸線は他のJR線との接続が新幹線のみとなった為、制定された。 |
青春18きっぷのあいの風とやま鉄道線 普通・快速列車に乗車して通過利用する場合に限り、高岡 - 富山間を利用できる。高岡・富山両駅でのみ乗降できる。2015年3月14日に、北陸本線の倶利伽羅 - 市振間がJR西日本からあいの風とやま鉄道に経営分離された際、城端線と氷見線は両路線が高岡駅において相互に接続する以外に他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。 |
青春18きっぷのIRいしかわ鉄道線 普通・快速列車に乗車して通過利用する場合に限り、金沢 - 津幡間を利用できる。金沢・津幡の両駅でのみ乗降できる。2015年3月14日に、北陸本線の金沢 - 倶利伽羅間がJR西日本からIRいしかわ鉄道に経営分離された際、七尾線が他のJRの路線と接続の無い飛び地路線となったため制定された。 |
青春18きっぷの歴史 前述の通り、青春18きっぷは国鉄の増収策の一環として企画された。当時、国鉄内部では利用者層を青少年(学生)・中年(社会人・主婦)・老年と分けた場合、中年男性は出張などで長距離の利用が多いものの、それ以外の年齢層では比較的短距離の利用が多いと分析していた。そこで、それらの層にも長距離の利用を勧めるためのトクトクきっぷを発売することとなった。老年向けには「フルムーン夫婦グリーンパス」を発売していた(中年女性向けには1983年から「ナイスミディパス」を発売)。これらの成功を受けて、1982年から青春18きっぷの前身にあたる青春18のびのびきっぷの発売が開始された。「青春18」とある通り、青少年(学生)を主な発売対象としたきっぷであったが、開始当時から年齢制限は無かった。当時国鉄には、長距離区間を運転する普通列車が数多く存在しており、民営化後のような合理化が進展していなかったこともあって、学校の長期休暇期間中、主要路線の普通列車はしばしば各地で長大編成の輸送力を持て余していた。そのような既存列車の輸送力を活用しながら、新たな需要を喚起することで、増収が狙われたのである。発売当初は1日券3枚と2日券1枚(共に青い地紋)のセットで、価格は8,000円であった。また青少年の利用を意識して、バッグなどに貼付できるシール状の「青春18ワッペン」が附属していた。利用期間は3月1日から5月31日までで、ゴールデンウィークを含む(ただし、1982年当時5月4日は国民の休日・みどりの日のいずれでもないため飛石連休)。夏季用は1日券4枚と2日券1枚のセットで10,000円となった。利用期間は7月20日から9月20日まで。冬季の設定なし。1983年春季、青春18のびのびきっぷは青春18きっぷに改称された。利用期間は2月20日から4月10日までとなった。1984年夏季用から1日券5枚となった。使用できる期間が1日短くなったが、価格は10,000円のままであった。また、1984年から冬季用が発売された。冬季の利用期間は12月10日から翌年1月20日まで(2009年冬季用まで続く)。1985年夏季用の利用期間は7月20日から9月10日までとなった(2015年夏季用継続中)。1986年冬季に価格が11,000円に改定され、1989年夏季より消費税が導入されたことを受けて11,300円に改定された。1990年からマルス端末による発券が可能となった。1993年春季用の利用期間は3月1日から4月10日までとなった(2015年春季用継続中)。1996年春季より、現行のように、5回(人)分を1枚の券片にまとめた様式となった。これは、金券ショップなどで1枚ずつバラ売りされるのを防ぐためとも言われているが、複数人数で同時に使用する場合、前述したように、集合・解散が煩雑になり、全員が同じ行程で移動しなければならなくなったため、使い勝手が悪くなった。JRの旅客営業規則において、旅行開始後の乗車券を他人から譲り受けて使用すると乗車券は無効(不正乗車)になることが定められているが、青春18きっぷについては、5枚つづりであったことに鑑み、5枚のきっぷをJRの都合によって1枚にまとめただけで各回の効力は独立しており、1回目のみを使用しても2回目以降は旅行開始前であると、一部書籍では説明されている。しかし、1回目の旅行開始できっぷ全体について旅行開始後となり、1回目の使用者とは別の人が譲り受けて2回目以降を使用するのは不正乗車とする意見もある。「複数人数の場合は同一行程」の条件の解釈に差異があると言えるが、1枚になった理由についてJRから公式の発表はない。1997年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,500円に改定された。2004年冬季から、普通・快速列車のグリーン車自由席に限り、グリーン券を別に購入することで利用できるようになった。同年10月のダイヤ改正に伴って実施されたJR東日本におけるグリーン車の制度変更によるものである。2007年にはJR各社が発足20周年を迎えたのを記念し、春季のみJR発足20周年・青春18きっぷが発売開始時の価格と同じ8,000円(乗車できる列車・回数などは通常のものと同じ)で発売された。当乗車券の発売・利用期間は1993年から2009年まで固定されていたが、2010年冬季から発売期間が12月1日 - 31日、利用期間が12月10日 - 翌年1月10日と10日間短縮され、また東北本線八戸 - 青森間の青い森鉄道への移管を受けて、青い森鉄道に乗車する際の特例が設けられた。2014年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,850円に改定された。2018年冬季からは、券面に記載される有効期間が和暦表記(平成30年)から西暦表記(2018年)に変更された。2019年冬季から消費税の税率変更に伴い、価格が12,050円に改定予定。 |
青春18きっぷの夜間の長距離移動 青春18きっぷは1日単位(24時間)で有効の形式を取っているため、夜間の長距離移動については、当きっぷ発売以前から運行されていた普通夜行列車に加え、1980年代後半以降に広範囲で「ムーンライト」など、当きっぷでも利用可能な夜行列車が運行され、より遠距離への移動需要を満たす役割を担ってきた。しかし、1990年代までに旧来の普通夜行列車は多くが廃止され、2000年代後半以降は「ムーンライト」についても次第に廃止される列車が増え、2009年春のダイヤ改正で、それまで定期運行されていた「ムーンライトえちご」(2014年春期を最後に運行なし)、「ムーンライトながら」が当きっぷ有効期間に合わせて運行される形となり、元々臨時列車であった「ムーンライト信州」とともに、青春18きっぷを利用できる夜行列車で移動できる地域は限定される傾向となっている。 |
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